ラトガース大学と日下部太郎

 

こんにちは。

 以下は、アメリカ、ニュージャージー州、ニューブランズウィックという町、特にラトガース・カレッジと日本の間に、150年前に繰り広げられた交流の歴史を綴ったものです。

 私は、何年も前にこの物語のことを聞き、調べてみたいと思っていました。まだ調査中なのですが、ようやくまとめることができましたので、サイトを始めました。

 

ラトガース大学をめぐる日米交流

日下部太郎の物語

Rutgers University and the Japan-US Relationship

Story of Taro Kusakabe

 

 

 

目次 (Contents)

1. はじめに (Introduction)

2. ニュージャージー旅情:つれづれなる日記から (Journey through New Jersey: From my diary)

2.1. ウィロー・グローブ 墓地 (The Willow Grove Cemetery)

2.2. ミルストーンのヒルズボロウ改革派教会 (Hillsborough Reformed Church at Millstone)

2.3. オールド・クイーンズ (Old Queens)

2.4. ジョンソン公園と桜の老木 (Johnson Park and an old cherry tree)

2.5. ラリタン川に架かる橋 (Railroad bridge over the Raritan River)                               

2.6. ラトガース大学ジメリ美術館 (Zimmerli Art Museum at Rutgers)

2.7. ラトガース・プレパラトリー・スクール (Rutgers Preparatory School)

2.8. エルムウッド霊園 (The Elmwood Cemetery)

3. 留学の地理的・時代的背景 (Geographical and historical background at the time of ryuugaku)

3.1. ニューブランズウィック (New Brunswick)

3.2. ラトガース大学 (Rutgers University)

3.3. 1870年のラトガース・カレッジ (Rutgers College in the year 1870)

オールド・クイーンズ (Old Queens) 

ダニエル・S・シャンク天文台 (Daniel S. Schanck Observatory)           

ヴァン・ネスト・ホール (Van Nest Hall)

アレキザンダー・ジョンストン・ホール (Alexander Johnston Hall)

3.4. ラトガース・グラマー・スクール (Rutgers Grammar School)

4.幕末から明治維新にかけての西洋との接触 (Contact with the West at the end of the Edo Period and the Meiji Restoration)

4.1. フルベッキ (Guido Fridolin Verbeck)

4.2. フェリス (John Mason Ferris)

4.3. 明治初期に活躍したラトガースと繋がりのあるアメリカ人 (Americans associated with Rutgers who made contributions at the beginning of Meiji)

バラ兄弟 (The Ballagh brothers)

ヘンリー・スタウト (Henry Stout)

エドワード・W・クラーク (Edward Warren Clark)

デビッド・マレー (David Murray)

5.横井兄弟のアメリカ留学 (The Yokoi brothers and their ryuugaku to America)

6.日下部太郎の青春 (The college days of Taro Kusakabe)

6.1. おいたち (Background)

6.2. ラトガース・カレッジの生活 (College life)

7.グリフィスとの巡り合い (Encounter with William Elliot Griffis)

7.1. グリフィスのおいたちから日本へ行くまで  (Background: From birth to Japan)

7.2. 太郎の父との面会 (Meeting with Taro’s father)                                                                           

7.3. グリフィスと日本 (Griffis and Japan)

8.太郎の病苦と死 (Taro’s illness and death)

8.1. ジョージ湖畔から (From Lake George)

8.2. 病苦と死 (Illness and death)

9.太郎と同時代の留学生 (Taro and his ryuugakusei contemporaries)

10.ウィロー・グローブ墓地 (The Willow Grove Cemetery)

11.グリフィス・コレクション (The Griffis Collection)

12.その後のラトガース大学と日本の交流 (The Rutgers-Japan relationship after the 1870s)

13.参考資料 (References)

 

 

 1. はじめに (Introduction)

 

 私は日本人で、日本人が海外に留学した歴史を調べることに興味を持ってきました。日本人が世界中いろいろな国に短期、長期に渡って留学した際の状況やその歴史を、留学生の視点から理解したいと思っています。昨今、日本の若者の間には、海外旅行はするものの、以前のような留学熱は余り感じられないと言われます。しかし、日本という国が封建時代から近代国家への仲間入りを果たした背景には、幕末から明治・大正・昭和と、多くの若者たちが海を越えて行き、知識を得たという経緯があります。

         

 私は、縁あって、幕末から明治維新にかけて、アメリカ、ニュージャージー州のニューブランズウィック (New Brunswick) に、日本の近代化を夢見て留学した若者たちがいたことを知り、調べてみました。若者たちは、日本が明治維新という大きな時代の変化を遂げる頃、遠くアメリカの東海岸の町にあるラトガース・グラマー・スクール (Rutgers Grammar School) とラトガース・カレッジ (Rutgers College) で勉強したのです。侍から急にアメリカ東部の学生になるというカルチャーショックは相当のものだったと思われ、そこにはやはり悲劇も待っていました。特に、日下部太郎の物語には、感慨深いものがあります。そこで、このサイトでは、幕末の日本人留学生の歴史を追いながら、その頃の留学生事情に思いを馳せてみます。

 

 日本人のアメリカへの留学は幕末の1865年に始まります。最初の留学生は、帰国後同志社を設立した新島襄で、彼はマサチューセッツ州のアムハースト・カレッジ (Amhurst College) で学びました。翌年、熊本藩から横井左平太と、太平の兄弟がニューヨーク港を経て、ニュージャージー州、ニューブランズウィックに到着し、ラトガース・グラマー・スクールで勉強することになります。彼らは大きな船と大砲の作り方を学び、日本を守りたいという情熱に燃えていました。

 

 1853年、ペリー提督率いる四隻の艦船が浦賀沖に現れて以来、新しい技術を学ぼうという希望に燃える若者が海外へ目を向けていたのです。横井兄弟に続いて、1870年代後半までに40数名の日本人留学生がラトガース・グラマー・スクールとラトガース・カレッジで学ぶことになるのですが、その中でも、ラトガース・カレッジを日本人として最初に卒業した日下部太郎の話には心が痛みます。

 

 太郎は福井藩 (越前藩) の武士であり、藩主に選ばれて米国留学の命を受け、1867年に22歳でラトガース・カレッジにやって来ます。大学では物理や数学を初め、科学学部の必須科目の講義を受講します。その秀でた才能を発揮したものの、太郎は過度の勉学のため結核を患い、1870年4月13日に卒業を目前にして他界してしまうのです。しかしラトガース・カレッジは、1870年の卒業生名簿に太郎の名を加えたのみならず、米国の最優秀卒業生に贈られるファイ・ベータ・カッパ賞 (Phi Beta Kappa Award) を与えます。ファイ・ベータ・カッパ賞のゴールデン・キーは、翌年の春、当時太郎に特別にラテン語を教えたラトガース・カレッジの先輩であるウイリアム・E・グリフィス (William Elliot Griffis) によって、はるか遠い日本の福井にいる太郎の父親の手に渡されました。その頃、ニューブランズウィックから福井までの道は遠く、船で太平洋を渡る長旅でした。なお、現在、ニューブランズウィックのウィロー・グローブ墓地 (The Willow Grove Cemetery) には太郎の他、六名の志なかばにして異郷の土となった日本人の若者たちの墓標が立っています。

 

 太郎に続いて日本からの留学生が次々とやって来ます。そして太郎が亡くなった1870年の時点では、約20名の若者が勉強していました。また、今回、ラトガース大学と幕末の日本との関係を調べていくうちに、ラトガース大学の関係者が、明治維新前後の日本の教育と教育政策に深く関わっていたことを知りました。そこで、太郎が経験したニュージャージーでの生活だけでなく、他の留学生と彼らの帰国後の活躍振りを追い、さらにラトガース大学関係者の日本での活躍に関しても、レポートしたいと思います。

 

 このサイトは、学術的な研究ではなく、あくまで個人的な思いを綴ったものです。参考資料のリストを中心に、ネット上の情報などと照らし合わせながら、私なりに構成したものです。直接引用している部分のみ、出典を明らかにしましたが、リストにある著作を通して多くの情報を得ることができたのであり、著者の方々に感謝の意を表したいと思います。また、幕末・維新の留学生の足跡を追って、ニューブランズウィック近辺の、学校、教会、霊園などを訪ねさせていただきました。その際、お名前を提示することはあえて致しませんが、親切に応対してくださった担当者の方々に、心よりお礼申し上げます。訪れた場所については、あくまで私のパーソナルな感想を綴りました。人名や地名については、表記が確立していないものもありますので、その都度説明を加えました。

 

 留学生の歴史を探ることは、日本人にとっても、また現在異国にあって常にみずからのアイデンティティを確認し続ける必要のある日本人にとっても、興味深いものと思います。幕末から明治にかけて、今でこそ、簡単に行き来できるアメリカですが、当時は途方もなく遠く感じられたであろう外国へ留学した若者たちは、私たちの誇れる先輩として、大きな意味を持っているのではないでしょうか。

 

 ちなみに、従来の研究では、アメリカでの調査は充分ではなく、全体として日本から見た留学生を捉える傾向があるという批判があるようです。そこで、アメリカからの視点を重視して調べてみました。調べていくうちに情報に喰い違いがあることが分かりましたが、なるべく複数の著者の立場を反映するようにしました。

 

 2. ニュージャージー旅情:つれづれなる日記から (Journey through New Jersey: From my diary)

 

 

2.1. ウィロー・グローブ 墓地 (The Willow Grove Cemetery)

 昨夜は、ニューブランズウィックに初雪が降った。今日は、土曜日でもあり、町はまだ眠っている。そんな静けさの中、ウィロー・グローブ墓地にやって来た。今立っているこの白色の小さな仕切られた墓地が、今から150年近く前に、大志を抱いて未知の世界に足を踏み入れ、志半ばにして異国の土となった若者が眠る場所なのだ。そんな宿命にあった日本人留学生と自分を重ねるわけでもないが、ここから故国への距離を思うと、きっと日本に帰りたかっただろう、と胸が痛くなる。美しい雪が、わずかに彼らの望郷の念と無念さを消してくれるような気がする。

 

 墓地の一角にある日本人区域は、入り口からは見えない奥の方に位置していて、人影は無く、ちょっと心細い思いをしながら来た。その小さな区画にある墓地の向かって右側のオベリスク形の墓標には、確かに「日下部太郎」の名前が刻まれている。ここには、太郎以外にも、何人か東部で亡くなった日本人が埋葬されているのだが、ラトガース大学に留学し卒業したのは、太郎だけである。太郎はどんな苦悩を抱えながら、勉強一筋というストイックな生活を送ったのだろう。ニューブランズウィックに来ていた日本人の中には、洗礼を受けてキリスト教信者になった者もいたのだが、太郎は周囲のプレッシャーに堪え、最後まで侍でいたのだそうだ。やはり、文化的な差は、人の心を蝕み、異文化の間に必ず起きる苦悶を強いる。それは、外国留学という経験の宿命でもある。

 

 

2.2. ミルストーンのヒルズボロウ改革派教会 (Hillsborough Reformed Church at Millstone)

 ミルストーンのヒルズボロウ改革派教会は、白く大きい木造建築である。今、その教会の前にいる。ニュージャージー州ヒルズボロウ町アムウェル通り一番地 (1 Amwell Rd. Hillsborough, NJ) という住所で、丁度角に位置しているので、時々車が曲って過ぎ去っていくのだが、それ以外は全く人通りのない静かな昼下がりである。教会の敷地に入ると、その横と裏には、1800年代であることが刻まれた古い粗末な墓石が、所狭しと並んでいて、その歴史を感じさせる。

 

 この教会はアメリカ独立以前の1766年に建てられたもので、実はこの教会の関係者は、幕末から明治初期にニューブランズウィックに留学した日本人の世話をしてくれた恩人なのである。1860年代、ニューブランズウィックから11マイル西のミルストーンまで鉄道路線が敷かれていた。太郎は体調を崩してからこの町に滞在し、無理してでもラトガース・カレッジまで列車通学していたのだ。丁度その頃、この教会に隣接する牧師館には、コーウィン牧師 (Rev. E. T. Corwin, D. D.) が住んでいて、そこに下宿しながら、彼から教育を受けていた日本人留学生の友人がいたのである。そんな安心感もあったのだろうが、何よりも空気の澄んだ場所で療養したいということもあったのだろう。当時の列車は、木製で現在の電車とは比べ物にならない状況だったらしいのだが、そんな列車に乗っていた太郎を想像すると、あの当時の風景がよみがえるような気がする。

 

 経済的にも苦しく、また病弱であった日本人留学生を助けたのは、教会に属する信者たちであった。アメリカは基本的に個人主義であり、日本のような人々の繋がりは、日常生活上、あまり感じられない。日本社会の優しさに欠けるのである。しかし、宗教的な善意は根強く存在していて、日本人留学生を助けようとしたのも、そんな善意に満ちた人々であった。官費留学生は、下宿代と教育費を払ってはいたのだが、それ以上の精神的な援助を受けていたのだと思う。

 

 

2.3. オールド・クイーンズ   (Old Queens)

 オールド・クイーンズは、ラトガース大学、カレッジ・アベニュー・キャンパス (College Avenue Campus) 内のクイーンズ・キャンパス (Queens Campus) の高台に立っている。ニューブランズウィックの駅を降り、右に曲って建物に向かって歩いていくと、何本かの大きな木々の向こうに、古い石造りの建物が目に入る。ここは、正に太郎や1866年から何年かの間に留学した日本人留学生が歩いた道である。三階建ての上には、キューポラ (塔) が立っていて、その中には授業時間を告げる鐘があると言う。日本人の学生たちはその鐘の音を聞きながら、希望に満ち溢れながらこの辺りをそぞろ歩いていたのだろうか。

 

 現在も、その美しい建物の姿は変わっていない。何回か修復されているようだが、この辺りには150年前の空気が漂っているように思う。(英語の表記には Old Queen’s と Old Queens の両方ありますが、引用部分を除いては、後者に統一します。)

 

 しばらく見とれていると、背後からチンカン、チンカンという音が聞こえた。高架線となっている線路に、列車が入って来たのだ。ニュヨークへ向かう二階建ての列車である。太郎が歩いた時代とは、すべてが変わってしまっているのだが、やはり、そこには、確かに太郎たちの魂が宿っているような気がしてならない。

         

 

2.4. ジョンソン公園と桜の老木 (Johnson Park and an old cherry tree)

        

 4月半ば、太郎がこの世を去った頃、ニューブランズウィックにも、遅い春が訪れる。ニューブランズウィックからラリタン川 (Raritan River) を越えると、ハイランド・パーク (Highland Park) という小さな郊外の町になる。川を挟んで、ラトガース・カレッジと向かい合う位置にあり、そのリバー・ロード (River Road) という通りとラリタン川に挟まれた土地に、ジョンソン公園がある。製薬会社、ジョンソン・アンド・ジョンソン (Johnson & Johnson) の一族が所有していたものを寄付した土地らしい。その公園の道路にほど近いところに、ソメイヨシノに似た一本の桜の老木を見付けた。

 

 まだ葉のついていない木々の中に、少しピンクがかった白い花が浮かんでいるのに気付いた。アメリカの桜はしだれ桜や、濃いピンクの山桜、また二重の重い花が密集する品種などが多いのだが、その花の様子は、少し違っていた。車を公園の駐車場に停め、少し歩いてみると、それは確かにソメイヨシノに似ていた。樹齢ははっきりしないので、太郎がいた頃、この木があったか分からない。もっとも、この辺はまだ公園ではなく、川沿いの土地がただ拡がっていただけだっただろう。誰が植えたか知る由もないが、その黒い老木の幹の間に、薄いピンクの可憐な花が咲いている様子には、なつかしい日本の風情があった。

 

 

2.5. ラりタン川に架かる橋 (Railroad bridge over the Raritan River)

                                                           

 ラリタン川に架かる橋は何本かあるが、ルート27に架かる橋と、その横に架かっている鉄橋は、今も旅情を誘う。太郎がニューヨークから南下してニューブランズウィックに来た時、逆に北に向かって、ニューヨーク州のジョージ湖に行った時通ったであろう鉄橋である。太郎が目にした景色は、今とは違ったものだろうが、大西洋に続いてゆったり流れるラリタン川の穏やかな流れは、その頃も美しかったことだろう。何度も洪水を起こしたらしい川なのだが、今は、ただ静かである。カモメが飛び交い、川面には カモや、頭と首が黒く体が茶色の雁の一種、カナダガン (Canadian geese) が遊んでいる。

 

 このラリタン川は、ラトガース大学の校歌にも歌われている。昔は高台のキャンパスから川面が見えたにちがいない。ラトガース大学はラリタン川の岸辺に位置し、川と同じように、永遠に存在し続けるという内容である。そんな校歌を歌ったであろう若者たちの姿がイメージできる。

 

 

2.6. ラトガース大学ジメリ美術館 (Zimmerli Art Museum at Rutgers)

 

 ラトガース大学付属、ジメリ美術館は、19世紀のフランス美術のコレクションで知られ、大学美術館としてはかなり大規模なものである。特に、日本の浮世絵の影響を受けたヨーロッパのジャポニズム運動を代表する作品が有名である。1994年、この美術館のコーナーに、日下部とグリフィスの関係を展示した「日下部・グリフィス・ジャポニズム・ギャラリー」(Kusakabe-Griffis Japonism Gallery)  が創設されたとの記事を読んだことがあった。受付で尋ねると、現在はそのような展示はなく、多分、特別展示だったのだろうとのことだった。

 

 落胆して美術館を出ると、通りの向こうの高台に、奇妙な白っぽい建物が見えた。それは1865年に建てられた小さな天文台なのであった。こんなところにも、歴史が息衝いているのだ。美術館は、クイーンズ・キャンパスから通りを隔てて、中央広場に沿った所に位置している。広場は芝生になっていて、中には大きな美しい木が何本も立ち、その長い影が美しい。落ち着いた風景の中を学生たちが行き交い、その周りには活気が溢れている。アメリカの大学は、なかなかいい雰囲気である。

 

 

2.7. ラトガース・プレパラトリー・スクール (Rutgers Preparatory School)

 

 五月の午後、ラトガース・プレパラトリー・スクールを訪ねた。アメリカには、大学入試を目的とした私立の準備教育システムとして、プレパラトリー・スクールがある。ここでは、現在三歳児から高校三年生まで、約600人が在籍し、一貫教育を受けている。

 

 150年前、この学校がまだラトガース・グラマー・スクールとして、カレッジ・アベニュー (College Avenue) 沿いの建物で若者のエリート教育をしていた頃、日本からの留学生を何人も受け入れていたという歴史がある。そして、現在も、日本からの留学生の歴史など、日本に関連する情報を集めた特別陳列室があると聞いていた。

 

 丁度、授業が終わったところで、高校生と中学生が帰宅の時間であった。家族が車で迎えに来ていて、駐車場は混雑していた。受付で説明すると、ロビーで待つように言われた。しばらくして、担当の先生が、図書室の奥に位置する落ち着いた部屋に案内してくれた。ここ30年余りの間に、日本と関係のあった教師や職員の写真などが飾ってある。そして奥から出してくれた段ボール箱には、1870年代のカタログや、何人かの日本人の写真などがあった。ラトガース・グラマー・スクールは、現在のキャンパスに移動したことと、火事に見舞われたこともあり、古い資料はほとんど無くなってしまっているとのことであった。

 

 日本からの留学生が学んだのは、この現代風の校舎とはほど遠い。それでも、何か、歴史を感じさせる。アメリカの私立学校の生活を垣間見て、日本より本当に恵まれているなあと感じる。幕末の日本の教育とグラマー・スクールの間には、計り知れない差があったにちがいない。そんな環境の中で、日本では侍であった若者たちは、英語の習得に奮闘しながら、すべてに順応しようとしていたのだろう。

 

 

2.8. エルムウッド霊園 (The Elmwood Cemetery)

 

 その日、午後から秋晴れになるという天気予報が出ていたのだが、朝エルムウッド霊園を訪れた時、空はどんより曇っていて、少し蒸し暑かった。この墓地は、1865年に創設されたもので、150年以上の歴史を誇る。広い霊園には、太い幹の常緑樹が生え、地面はすべて刈り整えられた草に覆われている。むしろ森の中に墓石や墓碑が立っているという感じである。整然と並んだ墓地の前にはかなり広い道のようなスペースがあるのだが、これは創設時に馬車が通れるようにと設計されたものなのだ。

 

 この墓地には、ラトガース・カレッジの関係者や、ニューブランズウィックの知名人が埋葬されている。私がここを訪れたのは、ラトガース・カレッジで多くの日本からの留学生に数学を教え、そして日本でお雇い外国人として日本の教育改革に尽力した、マレー教授 (David Murray) の墓を参りたいと思ったからである。

 

 親切な係の方が案内してくれたのは、大きな石に銅版が嵌められためずらしい墓石だった。彼女によると、この墓地の四隅には日本から送られた四本の木が植えられていたのだが、枯れてしまい撤去されてしまったとのことであった。何の木だったか分からないとのことだったが、桜の木だったのかもしれない。木があれば、日本庭園のようなイメージだったのではないだろうか。それは、夫人とともに、日本人留学生を暖かく受け入れて世話をしてくださり、明治初期の日本に住み、日本のために尽くして下さった教授が好んだ風景だったのではないだろうか。墓石だけが残っているのは寂しいが、マレー教授の墓地一帯は、静かで美しかった。

         

 墓石の銅版には、マレー教授の残した「言葉ではなく行為で示せ、不言実行」 (Deeds not words) というメッセージの墓碑文 (epitaph) が刻まれていた。 

 

3. 留学の地理的・時代的背景 (Geographical and historical background at the time of ryuugaku)

  

3.1. ニューブランズウィック (New Brunswick)

 ニューブランズウィック市は、ニューヨーク、マンハッタンの34丁目にあるペンシルバニア駅 (Penn Station) からNew Jerseyの州都、トレントン (Trenton) に向かうニュージャージー・トランジット (New Jersey Transit) の列車で約一時間のところにあります。この町には、バンドエイドでお馴染みの製薬会社、ジョンソン・アンド・ジョンソン (Johnson & Johnson) の本社と、ニュージャージーで唯一の州立総合大学ラトガース大学 (Rutgers Universityまたは Rutgers, the State University of New Jersey) があります。それ以外は、近くを流れるラリタン川、全米を結ぶ鉄道網アムトラック (Amtrak) と、ニュージャージー・トランジットの列車の駅、などが目立ちます。ニューヨークから通勤可能なことから、最近は高層マンションや、タワーマンションなども増えているようです。

 

 日下部太郎が渡米したのは、南北戦争 (1861 -1865) が終わった直後のことでした。1861年、北部と南部の対立が激しくなります。南部11州は合衆国を脱退し、北部23州との間に戦いが始まりますが、最終的には北部が勝利します。戦争は南部に荒廃をもたらしましたが、北部には未来への勇気と活気をもたらします。アメリカは政治的のみならず、経済的にも一体化した方向に向かうことになったのです。爆発的な工業化と都市化が進む時代の幕開けでした。ニューブランズウィックにも、こうした波は押し寄せつつあり、かつてのラリタン川沿いの商業都市から、全米一の大都市ニューヨークの外郭に位置する工業都市への変貌が顕著に見られるようになりました。ニューヨークとフィラデルフィアを結ぶ鉄道の中間に位置する町として、さらに、ラリタン川に沿って1834 年に完成したデラウェア・ラリタン運河 (Delaware and Raritan Canal) の出発地点として、町は急激に発展していきます。

 

 1870年代のニューブランズウィックは、こうした経済成長の真っ只中にあり、多くの教会の塔が目立つ町でした。そして、幕末から明治初期にかけて、この町は日本からの留学生を何人も受け入れることになります。ちなみに、1870年、人口は15,059人、戸数3,155、32の工場と1,578人の労働者を擁する都市となっていました。

 

 アメリカは激動の時代を迎えていましたが、日本にも大きな波が押し寄せていました。海外からの圧力を否定し続けることはできず、 日本から最初の遣米使節団がアメリカに到着したのは、1860年のことでした。最初の留学生のためにパスポートが正式に交付されたのは、1867年でした。そして1868年、明治維新を迎えることになります。

 

             

3.2. ラトガース大学 (Rutgers University)

 

 ラトガースは古い大学です。ニュージャージー州の州立大学としての現在のラトガース大学の前身は、アメリカ植民地時代に創設された全米で八番目に古い私立のカレッジでした。17世紀、イギリスとオランダがアメリカへの殖民を始め、コロニーが拡がっていきます。1766年、英国王、ジョージ三世 (George the Third of Great Britain, France and Ireland) の許可に基づき、いわゆるコロニー大学の設置許可が下り、九校の大学の設置が認められます。その中にラトガース大学の前身、クイーンズ・カレッジ (Queens College) がありました。(他は、コロンビア、ハーバード、イェール、プリンストン、ウイリアム・アンド・メアリー、ペンシルバニア、ブラウン、ダートマスです。)

 

 クイーンズ・カレッジという名称は、ジョージ三世の王妃であったシャーロットを讃えたものだそうです。このカレッジの設立を申請していたのは、ニューヨーク州とニュージャージー州に移住していたオランダ生まれの人々と、彼らが属していたオランダ改革派教会 (Dutch Reformed Church) でした。その目的は、オランダ改革派教会の牧師を養成することと、その子弟の教育でした。カレッジに入る前段階の教育機関として、グラマー・スクールも設立されます。

 

 授業は1771年に始まりましたが、校舎というようなものは無く、ニューブランズイックのアルバニー・ストリート (Albany Street) とニールセン・ストリート (Nielsen Street) の角にあった、居酒屋、レッド・ライオン・タバーン (Red Lion Tavern) を使っていました。1789年には、町の中心部にカレッジ・ホール (College Hall) が建てられたため、そちらに、そして1811年にはオールド・クイーンズに移転します。

 

 ラトガース・カレッジは、経済的な問題から、一時閉校を余儀なくされますが、1825年、独立戦争の英雄でニューヨークの富豪であり篤志家であったヘンリー・ラトガース大佐 (Colonel Henry Rutgers) の寄付により再開し、ラトガース・カレッジと改名されます。当時のミルドーラー学長 (Philip Milledoler) はオランダ改革派教会の牧師であったこともあり、その教会の先輩であるラトガース大佐の名前をそのまま大学名とすることにしたのでした。カレッジには、1865年、それまでの人文学部 (Classical School) に加え、科学学部  (Scientific School) が設立されます。科学学部の創設には、クック教授 (George H. Cook) と、後に日本と深く関係することになるマレー教授 (David Murray) が、関わっていました。1862年、リンカーン大統領の下、公の土地を、農業と機械工業を学ぶ大学に提供するMorrill Land-Grant Actsという法律が制定されます。ニュージャージー州では、プリンストン大学も候補に上がりましたが、結局、ラトガース・カレッジに科学学部を設置するに至ります。

 

 そして20世紀半ばの1956年、州立総合大学として統合され、ラトガース大学となって、現在に至ります。州立大学でありながら、アイビーリーグの大学と同質の教育が受けられるパブリック・アイビー (public ivy) として知られています。

 

 総合大学となった現在のラトガース大学には30のカレッジがあり、学部の学生数は、三万五千人以上、大学院も約一万人、教授陣は八千人を超え、専攻できる分野は150という規模です。ニュージャージー州のニューワーク (Newark) とキャムデン (Camden) にもキャンパスがありますが、メインキャンパスはニューブランズウィックとピスカタウェイ (Piscataway) に拡がっていて、それは五つのキャンパス (Busch, College Avenue, Cook, Douglas, Livingston) からなっています。メインキャンパスには約200の建物があり、その敷地面積は2,685エーカーで、東京ドームの約220倍になります。日本人が留学したのは、現在のカレッジ・アベニュー・キャンパスの一部に当たり、その古い区画はクイーンズ・キャンパス (Queens Campus) と呼ばれています。そこには現在も幾つか歴史的建造物として当時の建物が残っています。カレッジ・アベニュー・キャンパスには、図書館、学生寮、美術館などがあります。

 

 このサイトで紹介するように、ラトガース・カレッジと日本の間には、感動的な交流の歴史があります。日下部太郎を初めとして、日本人の留学生を受け入れましたが、その中には、勝海舟の子息の勝小鹿、海援隊隊士として坂本龍馬と共に活躍した菅野覚兵衛と白峰駿馬、岩倉具視の子息の岩倉具定と岩倉具経、佐土原藩主島津忠寛の長男島津又之進と、弟の丸岡武郎がいます。こうして1866年以降の10年間に約40名がラトガース・グラマー・スクールで、またそのうち何人かがラトガース・カレッジで学ぶことになります。日本からの留学生でラトガース・グラマー・スクールとラトガース・カレッジで学んだり卒業した者の中には、日本に帰って教育家、政治家、実業家として活躍した者が多くいます。

 

 一方、グリフィス  (William Elliot Griffis) の日本との関係以外にも、1870年代にラトガースから日本に派遣された教授として、後述するように、数学者で日本の教育に関する多くの助言をしたデイビッド・マレー (David Murray)、またラトガース・カレッジの卒業生で、静岡で英語を教えたエドワード・W・クラーク (Edward Warren Clark) などがいます。

 

 

3.3. 1870年のラトガース・カレッジ (Rutgers College in the year 1870)

 

 1870年に、太郎を含む日本からの留学生が見たラトガース・カレッジのキャンパスは、どのようなものだったのでしょう。建物が建てられた年度を調べてみると、クイーンズ・キャンパスには当時、少なくとも、四つの建物が存在していたことが分かります。

 

オールド・クイーンズ (Old Queens)

 

­ ラトガース大学で一番古い建物は、オールド・クイーンズ (Old Queens) と名付けられた石造りの建物です。1811年から1825年にかけて建てられ、現存しています。現在は大学の事務局となっていて、ラトガース大学総長を初め、幹部の方のオフィスが入っています。建物の裏側、現在の大学のキャンパスに面した入り口には、銅版があり、この建物がどのような役割を果たしてきたかについて次の説明があります。(和訳は筆者によるものです。)

         

Old Queen’s was designed in 1808-1809 by the architect John McComb.  The building is a fine example of Federal architecture on a college campus.  When first occupied in 1811, Old Queen’s was the sole building of academic instruction for the College, the New Brunswick Theological Seminary, and the Rutgers Grammar School.  Constructed of ashlar brownstone on the side facing the city and fieldstone on the backside, the building included recitation rooms on the first floor, a chapel and library on the second floor, and wings on each side that served as living quarters for the faculty of the College.  The building was completed in 1825 and included a cupola, the gift of Stephen van Rensselaer, and a college bell, donated by Colonel Henry Rutgers, that originally signaled the change of classes.  In 1976 Old Queen’s was designated a National Historic Landmark by the U.S. Department of the Interior.

 

オールド・クイーンズはジョン・マッコム (John McComb) によって 1808年から1809年にかけて設計された。建物はカレッジのキャンパスに見られるフェデラル様式の代表的なものである。1811年に最初に使用された当時は、この一つの建物の中に、教室、ニューブランズウィック神学校、グラマー・スクールが入っていた。ニューブランズウィックの町に面する表側は、ブラウンストーン、裏側はフィールドストーンでできていて、一階は教室、二階は礼拝堂と図書館、そして建物の左右部分は、教授陣の住居となっていた。建物は1825年に仕上がり、ステファン・ヴァン・レンセラー (Stephen van Rensselaer) の寄付で建てられたキューポラ (塔) と 、塔の中にはヘンリー・ラトガース (Henry Rutgers) の寄贈によるベルが付けられた。ベルは授業時刻を告げるために使用されていた。オールド・クイーンズは1976年、アメリカ内務省により歴史的建造物に認定された。

 

ダニエル・S・シャンク天文台 (Daniel S. Schanck Observatory)

 

 ダニエル・S・シャンク天文台は、ラトガース・カレッジの最初の科学施設として、1865年に建てられました。ニューヨークの実業家シャンクの寄付とラトガース・カレッジの資金で建てられ、望遠鏡、時計、可動式の屋根があり、当時にしては最新の設備を備えていました。ニューブランズウィックの明かりと周囲の大木のせいで、夜空の観察が難しくなり、1960年代には使用不可となったとのことです。

         

ヴァン・ネスト・ホール (Van Nest Hall)

 

 ヴァン・ネスト・ホールは1845年に建てられ、1823年から1865年まで、ラトガース・カレッジの評議員であったニューヨーク州のアブラハム・ヴァン・ネスト(Abraham Van Nest) の名にちなんで呼ばれるようになりました。建物はもともとは二階建てであり、一階には、学際的なクラブであるフィロクレアン (Philoclean) とペイテソフィアン (Peitessophian) の部屋があり、二階には博物館と実験室がありました。その後、アブラハム・ヴァン・ネストの娘のアン・ヴァン・ネスト・ブッシング夫人 (Mrs. Ann Van Nest Bussing) の寄付によって、1893年に三階が加えられ、現在に至っています。

アレキザンダー・ジョンストン・ホール (Alexander Johnston Hall)

 

 クイーンズ・キャンパスのカレッジ・アベニュー (College Avenue) を挟んだ西側に、アレキザンダー・ジョンストン・ホールが立っています。アレキザンダー・ジョンストン・ホールは、1830年に建てられましたが、三階部分が1869年に加えられることになります。この建物は、ラトガース・グラマー・スクールとして使われました。私が訪れた時は、復元修理中だったため、見学はできませんでした。でも、カレッジ・アベニュー側からの入り口を一歩入った踊り場からは、かなり急な狭い黒塗りの螺旋階段を垣間見ることができました。現代の建築とは違って、すべてが小さく狭い感じがしました。

 入り口の銅版に、次の案内を読み取ることができました。(和訳は筆者によるものです。)

         

Rutgers Preparatory School

          This building was erected in 1830 to house the grammar school known later as Rutgers Preparatory School.  Contributions from the citizens of New Brunswick and the trustees of Rutgers College financed its construction.

          Rutgers Preparatory School is identified with the founding of Queens College in 1766.  The Grammar School opened in the spring of 1768.  The trustees of Queens College assumed supervision of the Grammar School in 1770 when the college opened its doors.

          During the years 1795-1805 and 1816-1825 when the College suspended classes, the Grammar School continued to serve the nation and helped make possible the re-opening of Rutgers College by the trustees.

          Until 1957 the Preparatory School and college served New Jersey’s educational needs under the direction of the trustees of the Rutgers College.  In July 1957 the school was placed under an independent board of trustees and separated from Rutgers, now the state university.

          After 162 years of continuing occupancy by Rutgers Preparatory School, this historic building was vacated on August 31, 1963.  On this date the school moved to its new Elm Farm campus 2.7 miles west of here on the Easton Turnpike.

ラトガース・プレパラトリー・スクール

 この建物は1830年に建てられ、ここには、後にラトガース・プレパラトリー・スクールと呼ばれることになるグラマー・スクールが開かれた。建物は、ニューブランズウィック市民とラトガース・カレッジの評議員による寄付によって建築された。

 ラトガース・プレパラトリー・スクールは、1766年に創設されたクイーンズ・カレッジの一部だった。グラマー・スクールは1768年春に授業を始めたが、1770年からクイーンズ・カレッジの評議委員会の監督下に置かれた。

 1795年から1805年の間と、1816年から1825年の間、カレッジは閉鎖されたのだが、その間もグラマー・スクールは授業を続け、ラトガース・カレッジの評議委員会が大学を再開する契機となった。

 1957年まで、プレパラトリー・スクールはラトガース・カレッジとともに、カレッジの評議委員会の監督下に置かれていて、ニュージャージー州における教育の需要に応えてきた。1957年7月、別の評議委員会の監督下に置かれ、州立大学となったラトガース大学と分離された。

 ラトガース・プレパラトリー・スクールは、162年間この建物を使っていたのだが、1963年8月31日にこの歴史的な建物から移転することになった。現在のラトガース・プレパラトリー・スクールは、イーストン・ターンパイクに沿って2.7マイル西のエルム・ファーム・キャンパスに位置している。

 

 

3.4. ラトガース・グラマー・スクール (Rutgers Grammar School)

 

 横井兄弟を初めとする日本人留学生を語る上で無視できないのが、ラトガース・カレッジに付属していたラトガース・グラマー・スクールです。ラトガース・グラマー・スクールは、ラトガース・カレッジ・グラマー・スクール、また日本語訳ではラトガース文法学校とも呼ばれますが、ニューブランズウィックにやって来た日本からの留学生の多くがここで学びました。その中の何人かはそのまま日本に帰国したり、ラトガース・カレッジに進学したり、またアメリカやヨーロッパの他の教育機関に進んだりしていきました。

 

 ラトガース・グラマー・スクールは、1766年に創設されました。最初はオールド・クイーンズ内にありましたが、1830年に建てられたアレキザンダー・ジョンストン・ホール (Alexander Johnston Hall) に移転します。最初の日本人留学生が入学したのは、1866年のことでした。1869年、初等教育も加わり、一貫教育の機関となります。1963年には、ラトガース・プレパラトリー・スクール (Rutgers Preparatory School) として、ラトガース大学から少し離れた隣町のサマーセット (Somerset) に移転し、現在に至ります。2016年には、創立250周年の行事が執り行われました。

 

 ところで、日本人留学生が在籍した1870年頃の学生たちは、どんな勉強をしていたのでしょう。言語、数学を中心とした基礎勉強や地図を使った地理などの勉強が中心だったようです。Heinlein (1990) を参考にすると、カリキュラムには、古典 (classical) 、ビジネス (business) 、一般過程  (general secondary program) があり、全体的に英語の能力が重視されたとのことです。毎月二回英語で書いたエッセイを提出することを義務付けられ、スペリング (spelling) 、句読点の使い方 (punctualtion) 、文法 (grammar) 、書くことで思考をまとめる訓練 (development of ideas) などが中心となっていたということです。

 

 現在残っているラトガース・グラマー・スクール時代の記録には、1870 年代の卒業式のあいさつ (salutation)  をダイハチロー・サガラ (Daihachiro Sagara) という日本からの留学生が英語で述べたという記録があります。幕末から明治にかけて、日本から来た若者たちを暖かく受け入れてくれたのは、この学校でした。

 

 

4.幕末から明治維新にかけての西洋との接触 (Contact with the West at the end of the Edo Period and the Meiji Restoration)

 

 横井兄弟や太郎がアメリカ行きを考えていた頃、日本と西洋との関係はどうなっていたのでしょう。特に、太郎の周囲の状況を中心に、ごく簡単に触れておきます。

 

 江戸時代末期、1853年、ベリー提督の率いる四隻のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航します、そして1854年に今度は九隻で再訪するという事件が起こります。開港を迫る海外圧力を目前とした勝海舟、坂本龍馬、横井小南などは、新しい時代を察知し、西洋に太刀打ちできる日本建設のため、東奔西走します。1864年、勝海舟が神戸に海軍操練所を建てたのも。このような時代の流れに反応したものでした。操練所は勝が反幕府的であるとして翌年閉鎖されることになるのですが、そこには、後に最初にニューブランズウィックにやって来る横井兄弟も参加していました。

 

 この頃、幕末から明治にかけて、何人かの西洋人が日本に影響を与えます。その中の何人かは、オランダ改革派教会との関連で、ラトガース大学と繋がっていた者もいます。

 

 1856年、初代駐日総領事としてタウンゼント・ハリス (Townsend Harris) が下田に赴任します。ハリスは1858年、日米修好通商条約を締結させ、1859年初代駐日公使となります。1861年、リンカーン大統領が二代目の駐日公使として任命したのは、ラトガース大学の卒業生であるロバート・H・プリュイン (Robert H. Pruyn) でした。プリュインはニューヨークのオランダ系の名家の出身で、ラトガース大学の評議員を務めた人物ですが、1865年、江戸の麻布に置かれた米国公使館で駐日公使として活躍します。

 

 

4.1. フルベッキ (Guido Fridolin Verbeck, 1830-1898)

 

 その頃、ラトガースと日本を結びつけた重要な人物として、グイド・F・フルベッキがいます。フルベッキは、オランダ改革派教会から派遣されて長崎の出島にやって来ますが、そこでの教え子たちをニューブランズウィックに送り出すという重要な役目を果たした人物です。

 

 フルベッキは、1830年、オランダのザイスト (Zeist) という町に生まれました。子供の頃から、音楽に親しみ、また言語習得に才能があり、オランダ語だけでなく、ドイツ語、英語、フランス語を流暢に話したとのことです。フルベッキは、モラヴィア教会 (Moravian Church) の学校に通い、伝道のため、グリーンランドや西インドに旅立ちます。続いてアメリカに興味を持ったフルベッキは、ウィスコンシン州グリーンベイに移住し、鋳物工場で働きます。1853年、南部アーカンソー州へレナに移り、橋の設計などに携わりますが、1854年、コレラに罹ります。周りの人々が死んでいくのを見て、自分がもし回復したら、一生を伝道に捧げることを誓います。

 

 無事回復した25歳のフルベッキは、1855年、義兄と一緒にニューヨーク州オーバーン (Auburn) のプレスビテリアン (Presbyterian長老派) の神学校に入ります。そこで、アジアでキリスト教の宣教活動をしていたサミュエル・R・ブラウン (Samuel R. Brown) とデュエイン・B・シモンズ (Duane B. Simmons) と知り合いになります。ブラウンはオーバーン近郊に住むオランダ改革派教会 (Dutch Reformed Church) の牧師で、中国で九年間宣教師をしていた経験があり、再びアジアに伝道に行きたいと考えていました。フルベッキは、20歳上のブラウンが語るアジアの様子に興味深く耳を傾けたものと思われます。1859 年、オーバーン神学校卒業前にフルベッキは、ブラウン、シモンズと一緒に、米国オランダ改革派教会の海外伝道の宣教師に選ばれます。その頃米国オランダ改革派教会では、積極的に宣教師をアフリカやアジアに送り込んでいたのです。

 

 三人は中国に寄り、先にブラウンとシモンズが、神奈川に渡ります。1859年、フルベッキは長崎に到着し妻を呼び寄せ、1861年長崎に居を構えます。キリスト教禁止令のため、数年間、日本語習得をしたり、日本人への英語教育に力を注ぎます。1864年には、洋学所とも済美館とも呼ばれた長崎英語伝習所で英語教師として幕府に雇われ、校長となります。済美館で、岩倉具視の子息である岩倉具定と具経、横井兄弟、そして日下部太郎にも英語などを教えますが、彼らは後にニューブランズウィックに留学することになります。そして1866年、佐賀藩が長崎に開いた致遠館の教師も勤めることになります。そこで、佐賀藩士の大隈重信、副島種臣など、後に明治政府の要職に就くことになる多くの若者の教育に携わります。大熊重信は、明治維新後の1898年、内閣総理大臣となった人物で、副島種臣は、内閣副総理や内務大臣を勤めました。

 

 また当時、フルベッキは、蒸気船の購入なども依頼され、その関係で、坂本龍馬、高杉晋作、木戸孝充、伊藤博文、西郷隆盛などが、フルベッキのところに出入りしていたということです。

 

 フルベッキは1869年、明治政府より大学設立のために、江戸に来るよう通達を受けます。先に1868年、フルベッキは大隈重信に日本の近代化について進言し、その内容を重視した岩倉具視は岩倉使節団に関してフルベッキの助言を求めたと言われています。また彼は、日本のプロテスタント教会の設立の中心人物で、森有礼の学制改革に大きな影響を与えた人として知られています。日本のキリスト教系大学の創設にも尽力しました。1869年、開成学校 (後の東京大学) 教師として、さらに明治政府顧問として活躍します。

           

 1878年に一時アメリカに帰国しようとしますが、フルベッキはアメリカの国籍を持たないことから、入国を拒否されます。その時、日本政府から長年の貢献が評価され、特別のパスポートが発給されました。そして翌1879年には宣教師として日本に戻り、明治学院理事長を務めます。1898年に死去、青山墓地に埋葬されました。

 

 

4.2. フェリス (John Mason Ferris, 1825-1911)

 

 フルベッキを日本へ送る決断を下したのは、オランダ改革派教会のジョン・M・フェリスでした。この頃の外交には宗教が絡まっていて、相手国の国民の心を掴むために、改革派、長老派の宣教師が派遣されることが多かったのです。フェリスは、オランダ改革派教会海外伝道局ニューヨーク支部にいて、フルベッキを長崎に派遣することにしたのでした。日本滞在中、フルベッキは、フェリスに日本での活動の報告をしていました。

 

 フェリスは1825年、ニューヨーク州アルバニー (またはオールバニ Albany) に生まれました。1843年、ニューヨーク市立大学を卒業し、1846年から1849年まで、ニューブランズウィック神学校 (New Brunswick Theological Seminary) で学びます。ニューブランズウィック神学校は、1784年に改革派教会の牧師教育のため創設され、プロテスタントの神学校としては、全米で最も古い歴史を誇ります。独立したキャンパスができる1856年まで、学校はラトガース大学のオールド・クイーンズの建物の中にありました。1849年、卒業したフェリスは、ニューヨーク州やミシガン州などでオランダ改革派教会の牧師となります。そして1865年から1883年まで、ニューヨークのオランダ改革派教会の海外伝道局の責任者になります。

 

 この時期、フェリスは、日米間の交流を促すための理想的な立場にありました。アメリカに留学したい日本人のために、フルベッキがフェリスに連絡し、それを受けてフェリスは、ラトガース・カレッジとラトガース・グラマー・スクールを紹介することになります。日本にいるフルベッキとニューヨークにいるフェリスを中心として、ラトガース・カレッジと明治維新を迎える日本との交流の基盤ができていきました。

 

 幕末の日本人は、フェリスのおかげで、ニューブランズウィックでの留学生活を送ることができたと言っても過言ではありません。日本政府もフェリスの業績を認め、その行為を讃えるため、後にアメリカを訪れる岩倉使節団を代表して岩倉具視と大久保利通による感謝状が送られます。その内容は、後にグリフィスが1885年6月16日、ラトガース・カレッジの、オールド・クイーンズとシャンク天文台の間に1873年に建てられたカークパトリック礼拝堂 (Kirkpatrick Chapel) で、講演した時の記録の中に引用されています。

 全文は次のような感動的なものです。(和訳は筆者によるものです。)

Secretary’s Office of the Japanese Embassy

Boston, August 5, 1872

Rev. J. M. Ferris, D. D.

Dear Sir,

          The Ambassadors, being on the eve of their departure from the United States, desire again to convey to you this expression of their thanks for the interest which you have (for many years) invariably manifested in their people and country.

          The kind assistance and encouragement which were so generally extended by you to the Japanese students who studied in this country during a crisis of such importance in our national history, will long be remembered by us.  These students are now far advanced in knowledge, and are very useful to our country, and the Ambassadors feel it is mainly due to your instrumentality.

          Until recently an impression has prevailed in Japan that many foreign nations did not entertain kindly feelings toward our people.

          The generous conduct exhibited by yourself and other gentlemen in this instance, as well as in all matters of educational interest pertaining to the Japanese youth, will do much to correct this impression, and will do more to cement the friendly relations of the two countries than all other influences combined.

          Please extend to the gentlemen this renewed assurance of the Ambassadors’ high appreciation of their kindness, and they will likewise, on returning to Japan, explain the matter satisfactorily to our government.

          We remain yours very truly,

          TOMOMI  IWAKURA

          TOSHIMITI  OKUBO

日本大使館事務局

ボストン、1872年8月5日

ジョン・ M・フェリス神学博士、神父様、

拝啓

 アメリカを離れる前夜にあたり、私ども、使節団は、再び、貴殿が長年に渡り、日本人と日本に対して変わらぬ興味を持ち続けてくださったことに感謝の意を表したく存じます。

 貴殿によって、わが国の歴史上危機的で重要な時期に、この国で勉強することができた日本人の学生たちに、惜しみなく与えられた暖かい援助と激励を、私たちは忘れることはありません。学生たちは現在は高い知識を身につけ、わが国に重要な貢献をしていますが、私たちは、そのようなことが可能であったのは、主に貴殿によるものと感じております。

 最近まで、日本には、多くの外国は日本人に対してあまり良い感情を持っていないのだろうという印象が強くありました。

 しかし、貴殿とこの件に携わった他の人々によって示された惜しみない親切な行為と、また、日本の若者たちの教育に示された配慮は、この印象の誤りを正し、他の全ての影響よりも、両国間の友好関係を固いものにすることでしょう。

 どうぞ、われわれが新たに確認いたします貴殿の温情に対する深い感謝の念を、皆様にお伝えください。そして我々も、日本に帰国した時には、わが国の政府にその内容を充分説明致す所存でございます。

            敬具

                        岩倉具視

                        大久保利通

 

 

4.3. 明治初期に活躍したラトガースと繋がりのあるアメリカ人 

(Americans associated with Rutgers who made contributions at the beginning of Meiji)

 

 フルベッキとフェリス以外にも、幕末から明治にかけて、オランダ改革派教会とラトガースの繋がりを背景にして日本で活躍した者が何人かいます。バラ兄弟 (The Ballagh brothers),、ヘンリー・スタウト (Henry Stout) 、エドワード・W・クラーク (Edward Warren Clark) 、デイビッド・マレー (David Murray) 、そして、後に詳しく触れるウイリアム・E・グリフィス (William Elliot Griffis) です。

 

バラ兄弟 (The Ballagh brothers)

 兄のジェイムス・バラ (James Hamilton Ballagh, 1832-1920) は1832年、ニューヨーク州に生まれました。長老派教会で育ちますが、改革派教会の色濃いラトガース・カレッジと、ニューブランズウィック神学校で教育を受けます。1861年、改革派教会の宣教師として布教のため、妻のマーガレットと共に日本へ渡ります。横浜に暮らし、長老派の宣教師ヘップバーン (James Hepburn) が中心となって設立された横浜アカデミーで教師となり、共立女学校の設立にも関わります。1876年横浜ユニオン教会 (Yokohama Union Church) の牧師となります。

 

 弟のジョン・バラ (John Craig Ballagh, 1842-1920) は、ラトガース・カレッジは卒業していませんが、兄に続いて日本へ渡り、日本の教育に尽力し、明治学院の創設時に重要な役割を果たしました。

 

ヘンリー・スタウト (Henry Stout, 1838-1912)

 スタウトは1865年にラトガース・カレッジを、1868年にニューブランズウィック神学校を卒業しました。1868年に結婚し、1869年、宣教師として日本に渡ります。東京での新しい任務に就くフルベッキの後任として長崎に到着しますが、この頃、先にラトガース・グラマー・スクールに留学し、日本に帰っていた横井大平と再会しています。スタウトは妻とともに、30年間に渡って英語を教えます。教え子に服部一三がいますが、服部は後にニューブランズウィックに留学し、1875年にラトガース・カレッジを卒業することになります。

 

エドワード・W・クラーク (Edward Warren Clark, 1849-1907))

 クラークは、ニューヨーク州アルバニーの改革派教会の牧師の家に生まれました。ラトガース・カレッジに進学しますが、そこで、グリフィスと会い、親交を結びます。同時に、畠山義成 (杉浦弘蔵) など、日本からの留学生と親しくなります。日本に行ったグリフィスは、クラークを日本に誘います。1871年、クラークは正式の招待状の無いまま日本に到着し問題になりますが、ラトガース・カレッジで知り合った勝小鹿の父である勝海舟の尽力で、静岡で英語を教えることになります。その後クラークはグリフィスを追う形で東京に出ますが、グリフィスが日本を去った1874年の翌年、彼も日本を去ります。1904年、著書である勝海舟の伝記 Katz Awa, the Bismarck of Japan, or, The story of a noble life、『カツ・アワ、日本のビスマルク、高貴なる生活の記録 』が出版されました。

 

デイビッド・マレー (David Murray, 1830-1905)

 マレー (日本ではダビッド・モルレーという表記が使われることがあります) は、ニューヨーク州に生まれました。1852 年、シュネクタディ (Schnectady) にあるユニオン・カレッジ (Union College) を卒業し、その後、アルバニー・アカデミー (Albany Academy) の教師、そして校長を勤めます。日本で活躍したクラークは、このアカデミーでのマレーの教え子でした。改革派教会の関係もあり、クック教授から招かれ、1863年、数学の教授としてラトガース・カレッジに赴任します。マレーはラトガースの卒業生ではないものの、この縁でラトガースと日本を繋ぐ重要な役割を果たすことになります。

 

  1872年、ラトガースに留学していた畠山義成 (杉浦弘蔵) は、岩倉使節団に参加し、通訳・書記官として活躍します。丁度この時、文部省はお雇い外国人教師として、日本の教育改革ができるアメリカ人を探していました。そしてラトガース・カレッジのキャンベル学長 (William Henry Campbell) に問い合わせますが、白羽の矢が当たったのが、マレーでした。マレーは数学の教授として、太郎を初め留学生の多くを暖かく受け入れ、何人も教え子としていましたし、自宅を開放し、公私に渡ってマレー夫人 (Mrs. Murray) とともに学生との親交を深めていました。しかも、教育改革についても、ラトガース・カレッジの科学学部設立に際して、クック教授と協力したことがあり、適任であると判断したのでした。

 

 1873年、マレーは夫人とともに日本に到着し、文部省の顧問として教育関係で活躍します。東京大学、東京女子師範学校 (後の御茶ノ水女子大学) 、教育博物館、などの設立や、教育条例の制定や改定にあたります。1879年、契約満期を終えたマレーは日本を去りますが、日本を去るにあたり、その貢献が認められ、勲三等旭日中緩章が授与されます。

 

 帰国後は、ニューヨーク州の教育関係の役職に就き、1882年、ニューブランズウィックに移り住みます。ラトガース・カレッジの評議員やニュー・ブランズウィック神学校の特別委員会事務長などを兼任し、1905年死去します。ニュー・ブランズウィックのエルムウッド霊園 (The Elmwood Cemetery) に埋葬されました。なお、現在、カレッジ・アベニュー・キャンパスの中央広場に面したレンガ造りの建物の一つは、マレー・ホール (Murray Hall) と呼ばれています。三階建てのマレー・ホールには英文学部が入っていて、研究室や教室があります。

                                                                                                                              

5. 横井兄弟のアメリカ留学 (The Yokoi brothers and their ryuugaku to America)

 

 新島襄がマサチューセッツ州のアムハースト・カレッジに留学したのに続いて、アメリカに到着したのは、熊本藩出身の横井左平汰 (1845-1975) と太平 (「たいへい」または「だいへい」 1850-1871) という兄弟でした。二人はフルベッキと長崎で会い、フルベッキがオランダ改革派教会と関係の深いラトガース大学を紹介したことから、ニュージャージー州のニューブランズウィックにやって来ます。

 

 横井兄弟は幕末の儒学者・思想家、横井小楠の甥です。熊本藩士で儒学者の横井小楠 (1809-1869) は、革新的な思想を持っていました。熊本藩の藩政改革を試みますが失敗します。しかし、福井藩の第十六代藩主松平春嶽 (1828-1890) に招かれて政治顧問となり活躍します。小楠は、差し迫っていた外国、特にアメリカからの圧力に対して国家的危機感を持っていました。解決策として、外圧に耐え得るような国内一致体制の構築に向けて改革する必要があるとし、幕府と諸藩が一体となって海軍を建設する必要性を訴えていた人物です。明治維新後に新政府に参与しますが、キリスト教を重視し過ぎる危険人物であるなどと誤解され、維新直後の1869年、暗殺されてしまいます。

 

 横井兄弟は、父が早くに病死したことから、叔父の小楠が養育することになりました。兄弟は小楠の薫陶を受け、故郷熊本で海外に夢を拡げながら育ちます。1864年、勝海舟の右腕として東奔西走していた坂本龍馬が、熊本に戻っていた小楠を訪れます。小楠は、兄弟を龍馬に託し、三人は大阪へ向かいます。そこでまず、勝海舟の塾で学び、さらに勝舟の提言により幕府が設置した神戸の海軍操練所に入ります。しかし、操練所の閉鎖にともない、兄弟は1865年長崎に向かい、済美館でフルベッキに西洋の学問を学びます。二人は長年洋行することの必要性を感じていましたし、叔父もそれを勧めました。小楠の援助を受け、兄弟は国禁を犯しながら密航のかたちでアメリカに向かいます。兄20歳、弟15歳、1866年4月のことでした。出発に先立ち、小楠は二人に漢詩を贈って激励したという記録があります。

 

 横井左平汰と横井太平は、アメリカに到着すると、それぞれサタロー・イセ (伊勢左太郎) とサブロー・ヌマガワ (沼川三郎) と名乗りました。1866年、晩秋のある日のことです。ニューヨークのフルトン街の三番地、オランダ改革派教会の海外伝道局の事務所の玄関に、一人の船乗りと二人の若者がやって来ます。事務所で迎えたのはフェリスでした。フェリスは最初中国人かと思ったのですが、二人の青年は日本人で、長崎でフルベッキのもと、英語を学んだのだと言います。携えてきたフルベッキからの紹介状と100ドルを持っていました。二人は「ビッグ・シップ」(big ship) と「ビッグ・ガン」(big gun, cannon) を作り、日本を外国に乗っ取られないようにしたい、と言うのです。フェリスは、オランダ改革派教会と関係の深いニューブランズウィックのラトガース・グラマー・スクールで学ぶ可能性を考え、世話をすることになります。

 

 しかし、二人がニューブランズウィックで下宿に落ち着くまでには、一方ならぬ苦労があったとされています。当時アメリカ東海岸には東洋人の姿は珍しく、偏見も少なくなかったようです。野蛮な異教徒に夜、殺されるかもしれないと、下宿の使用人たちが彼らの受け入れを拒み、下宿先がなかなか見つからなかったと言われています。オランダ改革派教会と関係のある、チャーチ・ストリート62番地 (62 Church Street) にあった下宿を営むヴァン・アースデール夫人 (Mrs. Van Arsdale) が、その宗教的情熱で彼らを改宗させることを願いながら、受け入れることにします。ラトガース・カレッジには当時学生寮はなく、遠隔地の学生のために何軒かの下宿先が指定され、そこで規則正しい生活を送ることになっていました。ヴァン・アースデール夫人の下宿も、そのうちの一軒でした。ちなみに現在、この番地には、建物はありません。丁度、ハイアット・ホテル (Hyatt Regency New Brunswick) の向かい側に当たります。

 

 横井兄弟は、ラトガース・グラマー・スクールで学びます。このころのグラマー・スクールでは、かなり高度の勉強が課せられていて、語学力の不足している兄弟には難しい内容でした。さらに、学生生活の一部として礼拝に参加するなど、オランダ改革派教会という宗教的な圧力が感じられたのでした。このカルチャー・ショックについて、左平太は、国許に送った手紙の中で、日本の生活との差に驚いていること、特に「日曜日ハ万職ヲ休メ」教会に行って、「耶蘇ノ道ヲ聞ケドモ、一トシテ信ジ難キ」(高木2017: 442) であると書いています。その後の滞在でも、キリスト教に対する違和感は、減ることはあっても、無くなることはなかったものと思われます。

 

 その後、左平汰は、ニューブランズウィックに滞在していたやはり薩摩藩からの留学生、松村淳蔵とともに、1869 年、メリーランド州アナポリス (Annapolis, MD) にある海軍兵学校 (The US Naval Academy) に進学します。海軍兵学校は1845年に設立され、全寮制の厳しい日課が課されました。二年かけて上級学年に進級する資格を得ますが、1871年、帰国を余儀なくされます。1872年、再度渡米し、政府派遣の海軍省生徒として。ボストンとワシントン近郊で学びますが、卒業には至っていません。帰国後は、法律審議機関に迎えられましたが、1875年死去します。31歳という若さで、やはり結核を患っていたのでした。

 

 弟の横井太平も、ニューブランズウィックに滞在中、結核を患い、1969年帰国します。熊本で養生しながら熊本洋学校の設立に尽力しますが、1871年21歳で死去します。当時、暖房もなく、熊本出身の若者にとって、ニューブランズウィックの冬は特に厳しかったし、結核などの免疫もなく、町の環境も、食事なども、体に合わなかったのです。前途有望な若者が何人か、肺結核を病んで亡くなってしまいます。 

 

 

6. 日下部太郎の青春 (The college days of Taro Kusakabe)

 

6.1. おいたち (Background)

 

. 日下部太郎 (1845-1870) は、横井兄弟が留学した一年後、ニューブランズウィックにやって来ます。太郎は、1845年、福井城下江戸町に八木八十八として生まれました。父は八木郡右衛門で、福井藩に仕え、家禄150石の武士でした。太郎は、10歳ごろからその学問的な才能を認められ、13歳で藩校明道館に入学し、儒学を中心とする教育を受けます。太郎は、1865年20歳の時、洋学修業のため長崎遊学を命じられます。長崎の清美餡では、宣教師フルベッキなどから英語をはじめとする西洋の学問を学びます。フルベッキの太郎に対する評価は高く、彼ほど明敏な日本人は数少ないとコメントしたとされています。太郎はフルベッキのもとで共に学んだ横井兄弟が、アメリカ留学に出発したことに刺激を受け、藩に海外留学を申し出ます。

 

 第十六代藩主であった松平春嶽は、幕末の動乱期に「最後の将軍」徳川慶喜に乞われて、政事総裁に就任した人物です。春嶽は開明的な藩主で、土佐藩を脱藩し浪人に過ぎなかった坂本龍馬とも親交を結び、熊本藩で閉塞していた英明な横井小楠を招いて、自身の政治顧問として、自藩の藩政改革にあたらせます。春嶽は藩校である明道館の創始者であり、倹約を奨励し、財政整理を勧め、産業の振興を促します。狭い藩に留まらない広い視野から物事を捉え、能力があれば他藩出身者を重要視することのできる人物でした。そして、福井藩は維新を見据え、幕末に早くもアメリカへの留学生を送り出すことになるのです。パスポート取得四番目の正規留学生として日下部太郎が選ばれます。22歳の太郎は、大政奉還間近の1967年アメリカへ旅立ちます。この時、春嶽は、八木八十八に代わって「日下部太郎」という名を与えたとされています。

 

 1867年、米国の太平洋郵便蒸気船会社が最初の太平洋定期便を就航します。しかし、米国西海岸から東海岸まで、大陸横断鉄道がまだ無かったため、太郎は太平洋航路ではなく、長崎から東南アジア、インド洋、アフリカ喜望峰を回って大西洋を横断するというコースで米国を目指します。オランダ船を利用した可能性も考えられるようです。1867年2月13日、太郎はアメリカに向けて出航しました。

 

 太郎は、横井兄弟とは違い、福井藩の公式留学生として、藩の経済的援助は充分ではなかったと言われているものの、藩費が支給されました。そして、長崎外国事務局が発給した三年間の期限付きパスポートを持っての留学でした。パスポートと言っても、太郎の書類をみると、「海外渡航免許状」という一枚の紙切れに過ぎません。写真はなく、身長5尺3寸5分 (162センチ) で、ほぼ当時の日本人の平均身長であり、「口大ナル方」などと体の特徴が記されているだけとのことです。

 

 太郎がニューヨークに到着したのは1867年8月12日でした。ニューヨークからは、フェリスの案内でニューブランズウィックに到着します。逗留先は、横井兄弟が滞在していた、ヴァン・アースデール夫人の経営する下宿でした。

 

 太郎は、入国一ヶ月後の9月の新学期からラトガース・カレッジの三年コースに入学します。グリフィスなどが学んだ人文学部 (Classical School) ではなく、クック教授とマレー教授の尽力によって新設されたばかりの科学学部 (Scientific School) に入学します。実務的な色彩の濃いカリキュラム編成となっていて、土木コース、機械コースと化学・農学コースを含むもので、三年間の速習のプログラムでした。

 

 

6.2. ラトガース・カレッジの生活 (College life)

 

 太郎がラトガース・カレッジに入学した頃、ラトガース・カレッジは、まだ小規模の私立のカレッジでした。1868年から1869年にかけての在学数は、古典学部95人、科学学部47人、カレッジの学生総数は142人に過ぎませんでした。

 

 その頃のカレッジ生活とはどんなものだったのでしょう。日記などの記録がないため、直接知ることはできませんが、1868年から1869年のアカデミック・カレンダーによると、第一セッションは、1868年9月22日から12月23日、第二セッションは1869年1月7日から4月7日、第三セッションは4月15日からで、6月23日に卒業式となっています。平日のスケジュールは、朝8時20分から、オールド・クイーンズの二階にあった礼拝堂で朝の礼拝をします。9時から1時まで授業があり、その後は、家庭学習をすることになっていて、家庭学習の内容は、翌日テストされたのです。日曜日は9時半から聖書の朗読があり、これには必ず出席しなければなりませんでした。午後または夕方、両親または保護者の決めた教会で礼拝に参加することになっていましたが、太郎はジョージ・ストリート (George Street) とアルバニー・ストリート (Albany Street) の交差点の北東側にあった第二改革派教会 (Second Reformed Church) の礼拝に参加しました。太郎は、このようなカレッジの日程をこなしながら、グラマー・スクールでグリフィスからラテン語の特別の個人レッスンを受けていました。

 

 カレッジでは、厳しく出欠状況が記録されていました。太郎が勉強したのは、科学学部の土木学・機械コース (Civil Engineering and Mechanics) でしたが、高木 (2005: 5) によると、その授業内容は、次のようで、かなり幅広く、高度な専門知識を学ぶことが課されていたことが分かります。 

1年生:数学、建築設計、生理学、動物学、植物学、化学、歴史、心理哲学、フランス語、作文と朗読練習

2年生:数学、設計、物理学、化学、鉱物学、機械学、歴史、心理哲学、ドイツ語

3年生:測地および天文学実習、地質学、建築学、機械学、土木工学、軍事工学、政治経済、倫理哲学、憲法

 

 太郎は、洋書を何冊も読破します。(その一部は、福井市立郷土歴史資料館に収められているとのことです。) 100両の手当てをもらって来たのですが、そのような金額で普通のアメリカ生活ができるわけもなく、常に不足しました。暖房も無い狭い部屋で勉強を続けることになります。しばらくして、福井藩から250両、両親から100両、が届きますが、それだけでは足りず、結局貧しい学生生活を送ることになります。1869年度からは官費留学生となり、600ドルが支給されるようになりました。一方、福井の父からは、二人の弟の死の知らせが届き、日本に帰って来るようにという手紙が届いていました。

 

 勉学以外では、1866年、プリンストン大学との野球の対外試合が行われたり、1869年、アメリカで最初といわれる歴史的なフットボールの試合がありました。ラトガース・カレッジはプリンストン大学に勝つという今でも語り継がれている快挙を成し遂げます。選手の中にはグラマー・スクールの卒業生も多くいたので、グラマー・スクールに在籍していた日本からの学生も、この試合には大いに興味を持っていたことでしょう。

 

 文化活動の面では、学際的なクラブ  (literary society) が形成されます。1867年には、学生新聞The Targumがグリフィスのリーダーシップのもとに発行されます。これらの行事や活動に太郎や横井兄弟、またその後、ニューブランズウィックを訪れた留学生たちがどの程度参加していたかは分かりませんが、当時の学生生活はかなり盛りだくさんだったようです。

 

 現在残っている太郎の滞米中の資料として、1869年7月9日付け、ヴァン・アースデール夫人あての書簡があります。ペンで書いたと思われる美しい筆跡で、次のように綴られています。以下は高木 (2005: 6) による和訳です。

親愛なるヴァン・アースデール夫人

 この火曜日に無事にこちらに到着し、こちらでの生活を楽しんでいることをご報告でき、うれしく思います。一週間前の火曜日にニューヨークを出発し、翌日の夜ナイヤガラの滝に着き、そこから汽船に乗ってサウザンド・アイランドやラピッズを経てモントリオールに着きました。セントローレンス河の航行はすばらしく、充分船旅を満喫しました。私たちは土曜の夕方にキースビルに入り、月曜の夜まで滞在しました。ロメイン牧師は大変親切で、興味深いところや機械工場などを、くまなく案内してくださいます。夏を過ごすにはとても良いところと思います。

 ここに来てから気分はとても良くなり、非常に気に入っています。ここには7, 8人の寄宿生がいますが、私たちは毎日ボートを漕いだり、魚を釣ったり、クロケットをしたりして楽しんでいます。あと5, 6週間ここにいたいと思います。

 私あてのものを何か受け取りましたら、下記のアドレスまでお送りください。

c/o Allen Sheldan

East Lake George

Queesvury, Warren Co.

御家族によろしくお伝えください。

この手紙は高木(三郎)氏にお送りください。

 

 この原文のコピーは、後述するラトガース大学のグリフィス・コレクションに収められています。私はそれを見せていただく機会があったため、書き写しました。以下は、英語の表現として完璧ではない面もあるようなのですが、手書きの原文を読み取れる限り正確に書き写したものです。           

           

                                                          Lake George

                                                          Warren Co.

                                                          July, 9th, 69

Dear Mrs. Van Arsdale,

                    It gives much pleasure to inform you that I have arrived here last Tuesday safely and am enjoying very much.  I left New York Tuesday a week before, and get (sic) in Niagara Falls next night, hence taken steam boat through Thousand Island and the rapids, went to Montreal; it was splendid sail on St. Rawlense (sic), and pleased us very much indeed.  We get (sic) Keesville last Saturday evening and stayed there until Monday night.  Dr. Romeyn was very kind for us, and took around all interesting places and machine workes (sic).  I think that it is very good place for summer.

                   I feel good deal better since I came into this place and like very much.  Here are about 8 or 9 boarders and we are enjoying every day with rowing, fishing and playing croquet (illegible here); I will very likely stay here 5 or 6 weeks. 

                   When you received any thing for me please send me addressing:

                             c/o Allen Sheldan

                             East Lake George

                             Queensvury, Warren Co.

Give my most kind (illegible here) to all your family.

                                                Your Respectfully

                                                          Taro Kusakabe

                             Please send this note to Mr. Takaki.

 

 イースト・レーク・ジョージ (East Lake George) は、ニューヨーク州、ウォレン (Warren) 郡のクイーンズベリー (Queensvury) という町の一部で、現在も避暑地として人気のあるジョージ湖の湖畔に位置します。太郎は、この町で、日に日に悪化しつつあった体を意識しながら、静養しようとしていたのでしょう。

           

 

7. グリフィスとの巡り合い (Encounter with William Elliot Griffis)

 

7.1. グリフィスのおいたち  から日本へ行くまで (Background: From birth to Japan)

 

 グリフィス (William Elliot Griffis, 1843-1928) は、ラトガース大学在学中に、日本人留学生と出会い、親交を深め、後に日本と深い関係を持った人物として重要です。

         

 グリフィスはフィラデルフィア出身で、南北戦争に従軍した経験を持ち、1865年奨学金をもらって、ラトガース・カレッジに入学します。聖職者になる目的を持ち、人文学部を選びますが、科学のコースも取ったようです。キャンパスではリーダー的な存在で、学際クラブのフィロクリアン・ソサイティーのリーダーとなります。また、ラトガーズ大学の学生新聞(The Targum)の創刊に際しては中心的な役割を果たします。この新聞は、1869年に初めて発刊され、現在のラトガース大学でも学期中は、月曜日から金曜日まで、無料配布されています。

           

 カレッジに在学中、グリフィスは、ラトガース・グラマー・スクールでアルバイトをしていて、横井兄弟に出会います。また、太郎にも特別にラテン語を教えますが、二歳年下の太郎の才能に驚いたと言われています。ラトガース・カレッジ卒業後はニューブランズウィック神学校に入学しますが、その間もアルバイトとしてグラマー・スクールで教えます。そして太郎の死去に直面し、その死を深く悲しんだのでした。

           

 一方、1870年の夏、日下部太郎の悲報を聞いて間もなく、福井藩主松平春嶽は、東京の大学南校 (後の東京大学) の語学、学術教師となっていたフルベッキに依頼して、適当な物理・化学の外人教師をアメリカから招きたいので紹介してほしいと頼みます。フルベッキは、それをオランダ改革派教会のニューヨーク海外伝道局のフェリスに取り次ぎます。フェリスはラトガース・カレッジのキャンベル学長に連絡します。そして、9月になってその福井藩からの要請が、グリフィスのもとに届きます。当時まだ27歳だったグリフィスは、未知の外国は危険だとの風潮があったものの、遠い東洋の神秘の国日本に強い魅力を感じます。何よりも太郎の故郷であることもあったことでしょう。日本に滞在していたジェイムス・バラにも手紙を出し、相談します。バラからは、何も心配することはない、という返事が届きます。そして、年間3,600ドルという俸給の他に、邸宅と馬も提供するという好条件を受け入れます。

           

 1870年11月、サンフランシスコまでは、開通したばかりの大陸横断鉄道で、サンフランシスコからは船で、日本へ出発します。太郎がニューブランズウィックで亡くなってから、わずか、七か月目のことでした。1870年12月29日、横浜に入港し、東京にしばらく滞在した後、1871年3月4日、福井に到着します。そして、早春の1971年3月5日、太郎の父に会い、ファイ・ベータ・カッパ賞のゴールド・キーを渡します。

         

 

7.2. 太郎の父との面会 (Meeting with Taro’s father)

 

 太郎の留学は、八木家に経済的負担を強いていました。太郎の父は、太郎の弟、次郎、三郎をあいついで亡くし、さらに藩政の改革のため御使番を免じられ、精神的のみならず経済的にも奈落の底にありました。太郎の志を是とする気持ちと裏腹に、帰国を待つ切なる思いがあったことでしょう。太郎の訃報を聞いて、母、おくまも亡くなっています。このような状況で、八木郡右衛門は太郎の友人であり師であったグリフィスと会うことになります。

 

 この時の感動的な様子について宇野 (1982:  33-34) は、グリフィスが福井に到着した翌日の様子を次のように説明しています。

翌日、藩の役所で責任のあいさつをすませて宿舎にもどったグリフィスは、日下部太郎の父、八木寿(郡右衛門)を迎えました。グリフィスは、おおきな手で太郎の父の手を、しっかりと握りしめました。二人の間に、言葉などいりません。ただうなずき合うだけでした。グリフィスは、ラトガース大学からの、ファイ・ベータ・カッパ協会から預かってきた金の鍵を手渡しました。日下部太郎に代わって、父、寿の手に、今しっかりと名誉ある金の鍵は渡されたのです。

 太郎の病死で母のおくまも悲しみのあまり亡くなっており、さみしい毎日を送っていた父の寿でした。グリフィスには、この父親の気持ちが痛いほどわかります。そして、日下部太郎との深い縁を思い、あすからの自分の仕事の大切さを心から思うのでした。

 

 ところで、ファイ・ベータ・カッパ賞についての説明が必要かもしれません。この章を与えるのは、ファイ・ベータ・カッパ  (ΦΒΚ) 協会 (ギリシャ文字のΦΒΚはパイ・ベータ・カッパーと読まれることもあります) で、優秀な成績で大学を卒業した人の会であり、現在も活動しています。在学中の成績が良いと、成績優秀者だけの会の終身会員になる資格が与えられます。アメリカにはこのような最優秀卒業生の会 (honor society) が幾つかありますが、ファイ・ベータ・カッパ協会は、その中で最も歴史があり、最も格調の高い全米的なフラタニティー (fraternity, 学生結社) です。その起源は1776年バージニア州のウィリアム・アンド・メアリ-大学 (The College of William and Mary) で生まれた学生の秘密組織でした。目的は高いモラルと教養に貢献することにあり、学部の三、四年生で優秀な成績を修めた者が推薦されました。ΦΒΚは、ゴールド・キーに刻まれているギリシャ語の頭文字をとったもので、それは “love of wisdom, the guide of life”「学問への愛は人生の導き手である」を意味します。このキーは、懐中時計のネジを回すために使われるものだそうです。ラトガース支部は1869年に設けられ、グリフィスがこの第一回の会員の一人に選ばれていました。1870年の支部の会長はマレー教授、副会長はグリフィスでした。太郎は、勿論日本人として初めての会員でしたが、その他にも、同時に会員に選ばれた者は、八人いました。

                       

 

7.3. グリフィスと日本 (Griffis and Japan)

 

 グリフィスが日本に到着した時は、日本が明治維新を迎え、封建制度が崩壊しつつある時期であり、政治的にも社会的にも大きな変革の渦の中にありました。グリフィスは福井では、太郎が学んだ明道館で英語や科学を教え、日本初の米国式理科実験室を作り、若者の教育に熱意を注ぎます。翌年、明治新政府の要請を受けて東京の大学南校に転じることになり、わずか10ヶ月あまりで福井を去ります。

 

 グリフィスは東京に移り、お雇い外国人教師として、明治時代の日本の教育の振興と日米交流とに力を注ぎます。日本滞在中、多くの知己を得、各地を旅行し、日記に日本滞在の経験を記します。そして興味のある資料を集め、海外のメディアに日本を紹介しました。1872年には、妹のマーガレット (Margaret Clark Griffis) が来日し、兄を助けながら、日本の女子教育のために尽力することになります。

 

 グリフィスは1874年アメリカに戻りますが、日本についての研究を止めることはありませんでした。ニューヨーク州のユニオン神学校 (Union Theological Seminary) で勉強し、長年の夢だった改革派教会の牧師となります。それから50年に渡って講義や執筆活動を続けます。50冊以上に及ぶ著作の中には日本語で『皇国』と訳されているThe Mikado’s Empireがありますが、この著作はイラスト入りで、当時日本の歴史と文化について書かれた最も権威のある本として、多くの読者を得ました。

 

 松村 (1975: 262) は、『皇国』の中でグリフィスが太郎の父親と会った際の感動的な様子を描いた部分を引用しています。その中で、ファイ・ペータ・カッパ賞のゴールデン・キーを受け取る時「その父は、その賞品をうやうやしく受取って、額へまで捧げ持った」と表現しています。

         

 

 グリフィスは、数々の論文、百科事典や参考書の項目など、日本や極東について、また太平洋地域におけるアメリカの役割についての著述を残しました。アメリカ人に日本と日本人を理解させることを天職とするほどに日本を愛し、海外における日本学の先駆者となりました。

 

 グリフィスは、日本からの留学生、及びその関係者、またアメリカ人で日本の教育に従事した他のお雇い外国人教師とも連絡を取り合いましたが、このような人間関係は、アメリカと日本の人脈ネットワークを形成し、グリフィスはその中心的メンバーとして、重要な役割を果たしました。1926年から1927年にかけて、85歳になっていたグリフィスは日本を再訪し、翌年フロリダ州でその生涯を閉じました。

 

 

8. 太郎の病苦と死 (Taro’s illness and death)

 

8.1. ジョージ湖畔から (From Lake George)

 

 ジョージ湖から太郎がヴァン・アースデール夫人に送った1869年7月9日付けの手紙では、体調が良いと書かれていましたが、病状は悪化していたようです。当時、ニューヨークにいた横井左平汰が同年8月25日付けでヴァン・アースデール夫人に宛てた手紙には、数週間前に受取った太郎からの手紙によると、健康状態は決して良くないこと、そのため、ジョージ湖には長くいられなかったこと、ニューヨークに戻った後はフラットブッシュ・アカデミーにいることが、記されていました。

 

 同様に、畠山良成 (杉浦弘蔵) が、友人に書いた英文の手紙が残っていますが、その中にも、太郎の体のことが書かれています。次は、高橋 (2016: 96) による日本語訳の引用です。

二泊したミルストーンでは、コーウィン牧師の招きがあり大変楽しく過ごしました。伊勢氏から親切な短信を受け取りました。彼が元気でいることを聞きうれしく思います。富田は、一昨日、勝君に付き添うために、レイク・ジョージに向けてミルストーンを立ちました。日下部の健康状態が良くないので、日下部が彼 (勝) をレイク・ジョージに残すことを余儀なくされたからです。彼 (日下部) はロング・アイランドのフラットブッシュ・アカデミーにいます。

 

           

 

 この手紙で、伊勢 (横井左平太) が元気でいること、ジョージ湖に行ったのは、太郎だけでなく、勝小鹿も一緒だったことが分かります。そして、太郎の健康状態が良くなく、小鹿を残してジョージ湖からロング・アイランドに帰ったために、随行者である富田鐵之助が、小鹿を迎えにミルストーンから旅立つことが分かります。太郎は、ジョージ湖を充分に楽しむこともできず、体は徐々に病に蝕まれていったのです。

 

 1869年の秋、ニューブランズウィックに来ていた友人の畠山良成 (杉浦弘蔵) が、同じく留学中の友人である永井五百助 (吉田清成) に送った10月9日付けの手紙には、太郎が弱体保養のためミルストーン (Millstone) に転居したという内容が記されています。

 

 ところで、ミルストーンは、ニューブランズウィック西方のラリタン川をやや遡った所にある小さな町です。独立戦争時、ニューブランズウィックがイギリス軍に占領された時に、ラトガース・カレッジが一時ここに移されたことがあるほど、改革派教会とゆかりの深い土地でした。そして、ここにあるヒルズボロウ改革派教会のコーウィン牧師の住む牧師館には、勝小鹿に随行してニューブランズウィックに来た富田鐵之助が下宿していました。改革派教会関係の保護、看病を受け易かったこと、そして、十歳年上の富田がいたことも太郎の精神的な支えとなっていたのでしょう。こうして太郎は、1869年の秋、ミルストーンでの新しい生活を始めます。少なくとも最終学年の第一セッションは、無理をしてでも、ラトガース・カレッジに列車通学していたようです。

           

 

8.2. 病苦と死 (Illness and death)

 

 太郎はその勉学態度と優秀な成績で、周囲の者を驚かせ、経済的に余裕のない、正に赤貧洗うが如き生活の中にありながら、クラスの主席を占め続けました。読破した洋書は200冊を超え、そこには太郎の血の滲むような努力が感じられるのですが、このような猛勉強を続けたため、その若い体は結核に冒されてしまいます。入院中、絶対安静を命じられたのにもかかわらず勉強を続け、それが見つかって本を取り上げられたというエピソードもあります。

         

 1870年4月、医師の助言もあり、太郎は帰国に向けて、ニューブランズウィックのフレンチ通りのデュモン夫人 (Mrs. Dumont) が経営する畠山義成 (杉浦弘蔵) の下宿に移り、4月17日にはニューヨーク経由で帰国する手はずになっていました。しかし、それを待たず、1870年4月13日、息を引き取ります。グリフィスの日記によれば、太郎の死亡した日時は1870年4月13日、金曜日、午後12時30分となっています。異国の生活に合わなかったこともあるのでしょう。しかし、荒々しい米国の地で、何かを掴もうとしていた太郎は、さぞかし悔しかったことでしょう。病苦にさいなまれた太郎の日々を思うと胸が痛みます。藩の期待に応えようとしていた真面目な青年の決意と苦悩を、思わずにいられません。

 

 後にグリフィスが、日本行きを決断したのは、太郎の人格と能力への高い評価があったとされています。当時米国に留学していた若者たちは、いずれも立派な武士気質に富んでいて、真面目に学問に精進し故国の期待に応えようとしていました。このころの留学生は世界における日本の立場を意識し、その危機感の中で献身的な努力を重ねていたのです。グリフィスは、太郎の真摯な態度と純潔な人間性に魅力を感じていたのでした。

 

 太郎の葬儀は、1870 年4月15日の午後、太郎が日曜日の礼拝に通っていた第二改革派教会 (Second Reformed Church) で執り行われました。(この教会は残念ながら現存していません。現在の第二改革派協会はカレッジ・アベニュー・キャンパス内のカレッジ・アベニュー沿いにあります。)ラトガース・カレッジの教授、学生、それにラトガース・グラマー・スクールの学生が、行列を成してカレッジを出発しました。太郎の遺体が置かれている下宿まで行進し、下宿での式の後、棺を馬車に引かせた台車に載せ、再び行列を組んで教会に向かいました。

 

 第二改革派教会での葬儀には、ニューヨークからフェリスが来て式を執り行いました。まずコーラスがあって、フェリスが聖書の詩篇90番2部を唱え、ついで祈祷が行われ、牧師でもあったラトガース・カレッジのキャンベル学長が弔辞を述べました。続いて賛美歌の中、大勢の人が太郎との別れを告げると、棺とともに墓地に向かいました。教会から程遠からぬウィロー・グローブ墓地に到着します。行列の順序は、聖職者、カレッジの教職者、棺の付き添い人であった八人の友人たち、棺、日本人留学生、カレッジ同級生、一般の学生、最後に一般の参列者となっていたそうです。太郎は明治政府の要請を受け、ニューヨークの領事館が購入したとされるこの墓地に埋葬されました。

           

 グリフィスが後に述べていることですが、太郎はキリスト教に入信することなく、死の床においても入信を拒みました。横井兄弟も入信していません。横井兄弟は、故国日本で若くして亡くなりますが、三人とも、侍として昇天したのです。

 

 1870年10月に墓碑が立てられましたが、その頃のThe Targum に、THE STRANGER’ S GRAVEというタイトルで、記事が掲載されました。高木 (2005: 8) によると、太郎の遺体は日本ではなく、ニューブランズウィックに埋葬されるべきだと友人たちが決めたと記されているとのことであり、建てられたモニュメントは「白の大理石風の石の台座に、8フィートほどの高さの、4面が削られた塔である」と説明されているとのことです。そして台座の表と裏には、TARO KUSAKABE  A native of Achizen, Japan  Died April 13, 1970  Aged 25 years  A Student in Rutgers College, and a Member of Phi Beta Kappa という文字が刻まれていると付け加えられているとのことです。

 

 

9. 太郎と同時代の留学生 (Taro and his ryuugakusei contemporaries)

 

 葬式が行われた翌日の1970年4月16日に、日本人留学生が連名でラトガース・カレッジのキャンペル学長に出した礼状が残っています。内容はラトガースの教授陣や学生たちが太郎に対して生前、そして葬儀に際して与えてくれた温情に感謝するものですが、その末尾に13名の名前が列記されています。当時、太郎に続いて、日本からの留学生が多くやって来ていたこと、そして友人の死を悼んでいたことが分かります。

 

島津又之進    丸岡武郎        杉浦弘蔵        勝小鹿            高木三郎        富田鐵之助

平山太郎        橋口宗儀        白峰駿馬        津田亀太郎    林玄助            永井五百助   

児玉淳一郎

 

 横井兄弟の名前が無いのは、ニューブランズウィックにはいなかったからです。弟の太平は結核で1869年7月に帰国、兄の左平汰は1869年12月に、アナポリスに旅立ちました。1869年ラトガース・カレッジに入学した薩摩藩の松村淳蔵とともに、海軍兵学校へ進学していたのでした。

           

 この頃、太郎の周囲にいた日本人を知るもう一つのヒントは、太郎の葬式の直後撮影された写真です。それが現存していますが、改革派教会でお世話になったマレー夫人に贈られたものだと言われています。マレー夫人は、当時改革派教会の日曜学校で太郎の面倒をみていたとのことです。この写真に写っているのは、以下10名です。

           

島津又之進    丸岡武郎        杉浦弘蔵        勝小鹿            高木三郎

平山太郎        橋口宗儀        津田亀太郎    林玄助            児玉淳一郎

 

 なお、1871年に記念撮影として撮られたと思われるもう一枚の写真があります。これは、他の写真もそうであったように、ニューブランズウィックのD. Clark Studio という写真館で撮られたとのことです。この写真には18名が写っていますが、その中で判明できるのは、岩倉具定、岩倉具経、杉浦弘蔵 (畠山良成) 、菅野覚兵衛、服部一三、白峰駿馬、松村淳蔵の七名です。それ以外の者の名前や出身地、ラトガース・グラマー・スクールまたはラトガース・カレッジで勉強したか、または卒業したかなど一切分かりません。太郎の日記などは残っていないため、想像する他ありませんが、太郎と、直接的にまたは間接的に交流があったものと思われます。

           

 

勝小鹿 (1852-1892)

 1867年12月、勝小鹿は随行者である高木三郎と富田鐵之助に伴われ、ニューブランズウィックに到着します。勝小鹿は、幕末に初代海軍卿などとして活躍した勝海舟の子息です。江戸出身で、1868年からラトガース・カレッジで学びます。1871年アナポリスにある海軍兵学校に入学し、1877年卒業します。その後、イギリス、フランスを視察して帰国します。日本では海軍大尉になりますが、健康に恵まれず、39歳で死去してしまいます。

 

富田鐵之助 (1835-1916)

 仙台藩士の富田は、当時日本からやって来た留学生より一回り以上年上で、英語力もありませんでした。特別指導が必要だったため、ミルストーンの教会に隣接する牧師館に居住し、コーウィン牧師 (Rev. E. T. Corwin, D. D.) から英語などを学ぶことになります。結局15ヶ月滞在しました。1870年アメリカの国勢調査には、富田がコーウィン宅に住んでいたことが示されているとのことです。富田はその後、ニュージャージー州ニューワーク (Newark) のブライアント・ストラットン・アンド・ホイットニー・ビジネス・カレッジ (Bryant Stratton and Whitney Business College) に留学します。帰国後、明治20年代に日銀総裁や東京府知事として活躍します。

 

高木三郎 (1841-1909)

 高木は、1841 年、庄内藩士黒川友文の長男として江戸藩邸に生まれました。後に絶家となっていた高木家を継ぎます。1859年、藩命により勝海舟の塾に入門し蘭学を学びますが、このころ、横井兄弟とも交流します。1867年7月、富田鐵之助とともに、当時14歳だった勝小鹿に伴い、アメリカへ旅立ちます。ニューブランズウィックに到着し、ラトガース・グラマー・スクールに入学します。1868年、明治維新という重大事を聞き帰国しますが、海舟に一喝され、1869年アメリカに戻ります。その後、外交畑を歩み、1874年にはサンフランシスコ領事、1876年にはニューヨーク領事を勤めます。ニューヨーク滞在中、妻との間に生まれた幼子が亡くなり、その子はウィロー・グローブ墓地に埋葬されています。

 

畠山義成 (杉浦弘蔵, 1844-1876)

 畠山は薩摩藩上級藩士の子息で、薩摩藩英国留学生のメンバーに選ばれ、ロンドン大学に入学します。しかし、仲間とアメリカに渡り、永井五百助 (吉田清成) 、鮫島尚信 (野田伸平) 、森有礼 (沢井鉄馬) 、松村淳蔵、長沢鼎、とともに神秘主義的宗教家であるハリス (T. L. Harris) の主催するニューヨーク州ブロックトンのコロニー、新生社 (Brotherhood of the New Life) に参加します。しかし、1868年に脱退し、1869年永井五百助 (吉田清成) とともにニューブランズウィックにやってきます。その年の7月松村淳蔵も合流し、三人は太郎と同時期にラトガース・カレッジで学ぶことになります。入学に際しては、横井兄弟と太郎が仲介の労をとったとされています。なお、ラトガース・カレッジに残されている記録では、杉浦弘蔵が使われていることが多く、ローマ字ではSoogiwooraという綴り字も見られます。 

 

 畠山は1871年までニューブランズウィックに滞在し、ラトガース・カレッジでは最後の学年は科学学部から人文学部に移ります。1868年、第二オランダ改革派教会で受洗し、宣教師を志します。そして、当時、ニューブランズウィックに集まった留学生の世話役的な存在となります。1871年、帰国命令が出たため、10月、イギリス経由で帰国します。1872年、岩倉使節団合流のためアメリカに渡り、岩倉使節団のワシントン到着と共に、通訳・書記官として活躍します。1873年、岩倉使節団とともに帰国します。

 

 帰国後は、来日したマレーの通訳を引き受けます。さらに、開成学校の初代校長になり、再会したグリフィスと開成学校の運営に尽力することになります。1876年再度渡米し、フィラデルフィア万国博覧会に参加し、ラトガース・カレッジから名誉修士号を授与されています。帰国の途中、34歳の若さで亡くなりますが、やはり結核に冒されていたのでした。

 

永井五百助 (吉田清成, 1845-1891)

 永井は薩摩藩士で、ニューヨーク州で新生社に参加した後、1869年ニューブランズウィックに到着し、ラトガース・グラマー・スクールとラトガース・カレッジで学びます。

 

林玄助 (林正明, 1847-1885)

 林は、熊本藩士で、1863年から1869年まで六年間、慶応義塾に学び、福澤諭吉に師事します。1869年、熊本藩士、津田亀太郎と共に、藩費にて留学することになり横浜を出発します。勝小鹿、児玉淳一郎、橋口宗儀と同時期にラトガース・カレッジで学びます。1872年帰国し、司法省翻訳官となりますが、日本法制史に残る啓蒙書の著者として知られます。

 

津田亀太郎 (津田静一, 1852-1909) 

 津田は熊本藩士で、熊本藩からの官費留学生として、1870年、林玄助 (正明) とイギリスに向かいます。途中、ニューブランズウィックに滞在中の横井左平太を訪問し、ラトガース・グラマー・スクールに入ることにしました。1871年、単身マサチューセッツ州、モンソンのモンソン・アカデミー (現在のWilbraham & Monson Academy) で学び、ウエストポイント陸軍士官学校 (Westpoint US Military Academy) を目指しますがその夢はかなわず、1871年から1872年にかけてイェール大学 (Yale University) の科学学部に籍を置きます。帰国後、1875年に北京公使館に勤務します。その後、熊本の教育、台湾の拓殖事業などに取り組んだことで知られています。

 

岩倉具定 (旭小太郎, 1852-1910) と岩倉具経 (龍小次郎, 1853-1890)

 岩倉兄弟は、随行の服部一三、山本重輔、折田彦市とともに、1870年、ニューブランズウィックに到着します。ルーシー・トムソン夫人 (またはルーシー・トンプソン夫人Mrs. Lucy Thompson) 方に下宿し、ラトガース・グラマー・スクールとラトガース・カレッジで学びます。到着後ほどなく折田はミルストーンに移り、富田に続いて1871年から12ヶ月、ミルストーンのコーウィン牧師の牧師館に住んで勉強することになります。

 

服部一三 (1851-1929)

 服部は長州藩士で、長崎でスタウト (Henry Stout) のもとで英語を勉強し、岩倉兄弟とともにニューブランズウィックに到着します。グラマー・スクールで学んだ後、1876年、ラトガース・カレッジの科学学部を卒業し、帰国します。帰国後は、文部省官僚となり、1882年には東京大学幹事となります。1884年、ニューオーリンズ (New Orleans) の万国工業兼綿百年博覧会に参加します。服部は、岩手県知事、広島県知事、長崎県知事、兵庫県知事を歴任しますが、浮世絵や近世絵画の収集家としても著名です。

 

島津又之進 (1849-1909) と丸岡武郎 (1851-1934)

 島津又之進は、第十代佐土原藩主忠寛の長男島津又之進忠亮です。そして、丸岡武郎 (大村純雄) は弟の島津武之進純雄です。二人は1869年、随行者の平山太郎と橋口宗儀とともにニューブランズウィックにやって来ます。勝海舟と懇意にしていたため、彼らの留学は官費によるもので、ニューブランズウィックの滞在については、海舟が世話をしたと言われています。その後ボストンに移ります。丸岡武郎は、コネチカット州 (Connecticut) ニューヘイブン (New Haven) に滞在した記録があるそうです。

 

平山太郎 (1849-1891)

 平山は佐土原藩士で、1869年米国留学の藩命を受け、藩主島津忠寛の長男又之進(島津忠亮)と弟の丸岡武郎 (大村純雄) に随行します。1973年帰国しますが、ミルストーンで学んだ折田彦一と、ラトガース・カレッジを卒業した服部一三とともに、文部省顧問として来日したマレーをサポートしました。

 

橋口宗儀

 橋口は佐土原藩士で、島津兄弟に随行し、最初ニューブランズウィックに滞在します。丸岡武郎とともにコネチカット州 (Connecticut) ニューヘイブン (New Haven) に移ります。ホプキンズ・グラマー・スクール (Hopkins Grammar School) に留学したという記録があるそうです。

 

白峰駿馬 (1836-1909)

 白峰 (白峯という表記もあります) は長岡藩士で、兄は、勝海舟のもと、幕府の藩書調所で教鞭を執った人物でした。兄に影響を受け、長崎で航海術や英語を学び、坂本龍馬の海援隊に入ります。1869年 (または1870年) アメリカに留学し、ニューブランズウィックのラトガース・グラマー・クスールで学んだ後、1871年ラトガース・カレッジの科学学部に入学し、造船学を学びます。しかし、学業半ばで帰国します。1875年、日本最初の西洋式船舶、白峯丸を建造し、1877年神奈川に白峯造船所を創設しました。

 

菅野覚兵衛 (1842-1893)

 土佐藩の庄屋に生まれ、坂本龍馬らとともに、勝海舟の弟子となります。長崎で亀山社中 (後の海援隊) を結成し、1868年、長崎で龍馬の妹と結婚します。白峰駿馬とともにラトガース・カレッジで学び、帰国後は海運省で活躍します。

 

児玉淳一郎 (1846-1916)

 児玉は長州藩士で、長崎でフルベッキに英語を教わり、1869年ニューブランズウィックにやって来ます。1870年一度帰国しますが、再度渡米しワシントン大学で学びます。1873年帰国し判事となります。

 

松村淳蔵 (1842-1919)

 松村は薩摩藩士で、薩摩藩第一次英国留学生としてロンドン大学に留学します。二年後、アメリカに到着し、ニューヨーク州で新生社に参加した後、ラトガース・カレッジで学びます。1873年、アナポリスの海軍兵学校を卒業して帰国し、海軍中尉となります。

 

工藤精一 

 工藤は江戸生まれで、1872年、ニューブランズウィックにやって来ます。1874年、ラトガース・カレッジに入学し、途中、人文学部から科学学部に変更します。アメリカに来た当初は英語ができなかったとのことですが、カレッジに入学するまでに力をつけ、優秀な成績で入学します。オランダ改革派教会の一員となり、聖職者になりたいという希望を明らかにしますが諦め、1878年ラトガース・カレッジを卒業します。帰国後札幌農学校の教師となり、その頃マレーの助手も務めたと言われています。

 

松平忠禮 (1850-1895)

 松平は信州上田藩主で、1870年、20歳で師事していた横浜のブラウン (Samuel R. Brown) の勧めで留学します。ラトガース・カレッジの科学学部に入学し、米人の娘と結婚後1879年にラトガース・カレッジを卒業します。1880年に帰国し、その後外務省に入り活躍します。‘

 

松方幸次郎 (1866-1950)

 松方は、薩摩藩主、松方正義の三男で、ラトガース・カレッジに入学します。松方は、ラトガース・カレッジのフットボールチームに属し、その頃のチームメートとの写真が現存しています。1885年卒業し、帰国後は実業家となり、初代川崎造船社長となります。彼は、東京国立西洋美術館の収蔵の一部である松方コレクションで知られる人物です。

 

 

10. ウィロー・グローブ墓地 (The Willow Grove Cemetery)

 

 ウィロー・グローブ墓地は、ニューブランズウィックの市立図書館の裏手にあります。墓地は三つのセクションから成っていますが、その一つが日本人区域と呼ばれる墓地です。この区域は1870年、太郎がラトガース・カレッジの卒業を目前に死去した時、設定されたものだそうで、日下部太郎の他、東部で亡くなった日本人が六名、そして幼子がひとり埋葬されています。

 

 この墓地に埋葬された若者はニューブランズウィックに滞在したり、ラトガース・カレッジやラトガース・グラマー・スクールで学んだこともありましたが、ラトガース・カレッジを卒業したのは太郎だけでした。太郎の墓碑には、「大日本越前日下部太郎墓」と日本語の文字が刻まれています。墓碑の台座には、太郎が1970年のラトガース・カレッジの卒業生であったことと、ファイ・ベータ・カッパ  (ΦΒΚ) の会員であったことが英語で刻まれています。

 

 さらに、墓標に刻まれた文字を参考にすると、ウィロー・グローブ墓地には、以下の人々が眠っていることが分かります。

 

日下部太郎(1845-1870)

1870年4月13日死去。ニュージャージー州ニューブランズウィック。享年25歳。越前出身。

 

ハセガワ・キジロー(1848-1871)

1871年11月18日死去。ニューヨーク州トロイ。享年23歳。姫路出身。

 

カワサキ・シンジロー(1860-1885)

1885年3月24日死去。ニューヨーク州プーキプシー。享年25歳。鹿児島出身。

 

マツカタ・ソースケ(1850-1872) 

1872年8月13日死去。コネチカット州ファーミングトン。享年22歳。薩摩出身。

 

オバタ・ジンザブロー(1844-1873)

1873年1月20日死去。ニューヨーク州ブルックリン。享年29歳。長州出身。

 

イリエ・オトジロー(1854-1873)

1873年3月30日死去。ニューヨーク州ニューヨーク。享年19歳。長州出身。

 

サカタニ・タツゾー(1857-1886)

1886年4月14日死去。ニューヨーク州ニューヨーク。享年29歳。備中出身。

 

タカギ(幼子)

1877年9月5日死去。タカギサブロー(1841-1909)とスマコの娘。

 

 この墓地に眠る太郎以外の若者については、詳しいことは分かりません。分かっているのは、次の三人についてです。カワサキ・ジローは、慶応義塾の学生で、ニュージャージー州プーキプシーのEastman Business Collegeで学んでいました。オバタ・ジンザブローは、ブルックリンのPolytechnic Instituteに一年間留学しました。そして、サカタニ・タツゾーは。慶応義塾の学生で、後に、ニューヨークで貿易関係の仕事に従事しました。

 

 日本人区域は、長年にわたってニューブランズウィック市が管理しているとのことですが、日本人区域の現在の所有者は明確にされていません。ニューヨークの日本領事館との協力のもと、その所有権についての調査が続けられているとのことです。日下部太郎の墓碑を含む日本人区域は、1970年代は荒れ果て、墓碑も何ヶ所か倒れていたようですが、その後、何度か修復されています。

 

 

11. グリフィス・コレクション (The Griffis Collection)

 

 ラトガース大学のアレキザンダー図書館に、グリフィス・コレクション (Griffis Collection) という特別資料が納められています。ここに収集された文献・資料は、明治時代に西洋人として日本に滞在した経験の記録であり、当時の日本とアメリカの交流関係、特に日本とラトガーズ大学の間の特別な交流を示す資料が多く集められています。 

 

 グリフィスの没後、遺族からグリフィスに関連する資料が、ラトガーズ大学の図書館に寄贈されました。それは膨大なものであり、日記、原稿、出版物、写真、家族に関する記録、スクラップブック、手紙などを含み、グリフィスが生涯に渡って成し遂げた業績すべてと言えるものです。グリフィスが記した福井と東京での生活の記録と、妹のマーガレットが二年間東京で教師生活を送ったその体験を綴った日記は、多くの研究者にとって貴重な資料となっています。

 

 多くのトピックを網羅していますが、日本の歴史と宗教、日米関係、宣教師活動、女性の教育、韓国や中国に関する情報、ミラード・フィルモア (Millard Fillmore) 、マシュー・ガルブレイス・ペリー (Mathew Galbraith Perry) などの日米関係に重要な役目を果たした人々、そして宣教師のフルベッキ、ジェイムス・バラー (James Ballagh)、ブラウン (Samuel R. Brown) などについての文献があります。

         

 加えて、グリフィスは多くの資料を収集していました。中には他のコレクションでは入手できない類のものもあります。江戸時代末期から明治の初期に日本で出版された希少価値のある印刷物 (本、パンフレット、地図など) 、また360本に及ぶグリフィスの生徒達が書いた英語のエッセイがあります。数百枚におよぶ写真には当時の著名な日本人や日本に滞在していた外国人が捉えられているだけでなく、明治時代の風景や人々の生活が映し出されており、さらに日本における初期の写真技術の歴史を示すものもあります。コレクションの中には著名な人物による原稿もあり、例えば明治政府に雇われて日本の灯台や橋の建設をしたR・ヘンリー・ブラントン (R. Henry Brunton) の回想録、1853年から1854年ペリー提督に同行したサイラス・ベント (Silas Bent) の航海日誌などがあります。

                       

 

12. その後のラトガース大学と日本の交流 (The Rutgers-Japan relationship after the 1870s)

 

 幕末から維新にかけてのラトガース大学と日本との関係・交流について、そしてその中でも特に日下部太郎については、現在までいろいろな形で語り継がれています。そこで、以下、どのような活動が成されてきたか、振り返ってみたいと思います。

 

 1960年代には、ラトガース大学創立200周年記念、及び、日本との交渉開始100周年記念行事として、ラトガース大学で国際会議が開かれました。それは、1967年4月26から28日にかけて開催された「文化交流100年記念祝賀・ラトガース・日本会議」で、研究発表が行われたという記録があります。

 

 1977年、福井市の大武市長がニューブランズウィックを訪問します。そして、オールド・クイーンズに立っているカークパトリック礼拝堂で、太郎の追悼法要を行いました。ニューブランズウィック市長に二千ドルを寄贈して、ウィロー・グローブ墓地の復元を依頼しました。

 

 福井では、1978年、福井県、福井市、福井大学、青年会議所を中心に「日下部太郎・グリフィス学術文化交流基金」が設立されました。1981年、ラトガース大学と福井大学との学術交流協定が結ばれました。続いて、1982年にニューブランズウィック市と福井市の姉妹都市協定が結ばれました。

         

 これより前、1980年には、ニューブランズウィック市の300年祭の行事の一つとして、「日本祭り、福井展」が催され、福井市長と福井大学長が招かれました。

 

 1983 年、ラトガース大学で正式に日本語プログラムが始まり、日本語を外国語として学ぶ学生のためのコースができました。そのために言語学者のメイナード教授 (Dr. Senko K. Maynard、山梨県出身、東京外国語大学卒、ノースウェスタン大学などに留学、卒業) が赴任しました。当時初級のみだったコースはその後、中級・上級の日本語コースや日本語研究のコースが加わり、現在は数百名の学生が日本語・日本文化を学んでいます。

 

 1985年、ラトガース大学で日本との関係や日本からの留学生について広く研究し、特に1980年代に交流関係を促進したバークス教授 (Dr. Ardath W. Burks) の編著、The Modernizers: Oversea Students, Foreign Employee, and Meiji Japan, Boulder and London: Westview Press (和訳は1990年『近代化の推進者たち 留学生・お雇い外人と明治』思文閣出版) が出版されました。なお、バークス教授の未出版の原稿は、Ardath W. Burks papers, 1970-1990として、アレキザンダー図書館に保存されています。

 

 1988年、ラトガース大学で松方幸次郎留学百周年祝典が開かれました。以下は、それに関するOCS Newsというニューヨーク周辺の日本人コミュニティーに向けた日本語新聞に掲載された記事からの引用です。

 ニュージャージー州ニューブランズウィックにあるラトガース大学で、明治の実業家松方幸次郎留学渡米百周年の記念行事が、1988年5月13日と14日の二日に渡って行われた。

 松方幸次郎は、明治政府が西洋の学問や技術を修めさせるために、米国のラトガース大学へ送り出した約300名の留学生の一人だった。のちに実業家 (初代川崎造船社長) となった幸次郎は、モネやロダンなどの西洋美術の名作、海外流出していた浮世絵、フランス人画家による浮世絵風版画を収集、それらは松方コレクションとして東京国立西洋美術館にあるが、今回初めて海外に貸し出され、この祝典の一環として5月31日まで同大学のジメリ美術館で展示されている。

 幸次郎の姪にあたる元駐日大使ライシャワー博士夫人ハルさんの幕開けで始まった。二日間の討論会には、日本から訪れた中曽根前首相、デザイナー三宅一生、建築家安藤忠雄も加わり、日米の文化の相互の影響が論じられた。

         

 

 1992年、姉妹都市10周年を記念して、ラトガース大学総長代表団14名が福井市を訪れました。以下、その時使用されたパンフレットの表紙と、「交流」の文字とともに最終ページに掲載された当時のローレンス総長 (President Francis L. Lawrence) の挨拶です。

         

 1994年、ラトガース大学ジメリ美術館 (Zimmerli Art Museum at Rutgers) に「クサカベ・グリフィス・ジャポニズム・ギャラリー」が完成しました。そして、2002年10月26日から一ヶ月、福井市美術館で姉妹都市20周年記念展が開かれました。

         

 2007年10月、福井市とニューブランズウィックの姉妹都市提携25周年行事として、”Moment of Contact: First Encounter between Japan and New Jersey” というシンポジウムが、ラトガース大学のアレキザンダー図書館で開催され、学術的な発表やディスカッションが行われました。

         

 2013年には、福井市の東村市長が姉妹都市提携30周年を祝って、ニューブランズウィックに来ますが、その際、日下部太郎の眠るウィロー・グローブ墓地を訪れました。

 

 なお、アレキザンダー図書館のグリフィス・コレクションに関して、触れておきたいと想います。前任のシモンズ氏 (Ruth Simmons) とペロン氏 (Dr. Fernanda Perrone) を中心として、ラトガース大学と日本の交流に関しての研究と、広報活動やイベントが続けられています。一例として、2017年、福沢研究センターにおいて開催されたシンポジウムにおいてペロン氏による講演 (“Invisible Network: Japanese Students at Rutgers during the Early Meiji Period”) がありました。

         

 このように、長年に渡り、ラトガース大学を舞台とした日米交流の歴史は、語り継がれています。2017年には、福井大学とラトガース大学との交流を促進するために、学術交流協定が新たに結ばれました。これにより、また関係が復活し、新しい活動が見られるかもしれません。

 

 

13. 参考資料 (References)

 

阿部珠理2006「青い炎 日下部太郎アメリカの千日」『言語』35, 9月号, 6-7

阿部珠理2018「日下部太郎 断章」『福澤研究センター通信』28, 2-4

石附実1990「明治初期における日本人の海外留学」『近代化の推進者たち 留学生・お雇い外人と明治』Ardath W. Burks 編集145-170思文閣出版

石附実1992『近代日本の海外留学史』中央公論社

宇野澤利勝1982『よみがえる心のかけ橋 日下部太郎/W. E. グリフィス』福井市立郷土歴史博物館http://www.history.museum/city/fukuijp/archives/zuroku/47.pdf 

高木不二2005「黎明期の日本人米国留学生 日下部太郎をめぐって」『大妻女子大学学術情報リポジトリ』37, 1-16.

高木不二2017「黎明期の日本人外国留学生 横井左平太と津田静一」『近代日本研究』34, 343-447

高橋秀悦2016「幕末維新のアメリカ留学と富田鐵之助 (5) 」『東北学院大学経済学論集』186, 1-91

高橋秀悦2018『海舟日記に見る幕末維新のアメリカ留学 日銀総裁富田鐵之助のアメリカ体験』日本評論社

村井実1984『もうひとつの教育』小学館

松村正義1975『ハドソン川は静かに流れる』新日本教育図書

山下英一2013『グリフィスと福井』増補改訂版 株式会社エクシート

Burks, Ardath W. ed. 1985. The Modernizers: Oversea Students, Foreign Employee, and Meiji Japan. Boulder and London: Westview Press.

Griffis, William E. 1916. The Rutgers graduates in Japan, An address delivered at Kirkpatrick Chapel, Rutgers College, June 16, 1885. Rutgers college (Internet Archive) http://archive.org/details/rutgersgraduates00grif.0

Heinlein, Daved. 1990. The New Brunswick-Japan connection: A history. The Journal of the Rutgers University Libraries. 52, 2, 1-20.

Millership, Susan and Nita Congress, eds. 2015. Rutgers: A 250th  Anniversary Portrait. Third Millenium Publishing.

OCS News. 1988.  5月27 日号

Perrone, Fernanda. 2017. The Rutgers network in early Meiji Japan. 『立教アメリカン・スタディーズ』39, 99-101.

Perrone, Fernanda. 2018. Invisible network: Japanese students at Rutgers during the early Meiji period. 『近代日本研究』34, 3-23.

 

 

 

 

読んでいただけましたか。

 

 日本人が外国に留学するという歴史は、古くは奈良時代の遣唐使に始まります。ですから、留学という現象は、決してめずらしいことではないのですが、そこには、多くの勇気と決意、巡り合いと別れ、そして悲劇もありました。

 

 現在は、むしろ日本への留学生が増えているようですが、彼等留学生にも多くの苦労と苦悩があることでしょう。日本文化に順応し、理解し、その差を越えるのは、なかなか難しいですね。また、世界中で、日本の文化、特にポピュラーカルチャー、に興味を持ち、日本語を勉強している方も多くいらっしいますが、彼等は、留学せずとも、異文化としての日本を経験しているわけです。

 

 日本からの留学、日本への留学、いずれにしても、留学という現象は、文化と文化の間における人間のあり方について考えさせられます。ネットを通して情報が瞬時に交換される現在、異文化間の経験は、ますます複雑で興味深く重要な課題になっているように思います。そして宗教間の争いが続く世界情勢を鑑みると、人間は、異なった宗教の間を生きることができるのか、異なった価値観の間で理解し合えるのか、という根本的な疑問に直面します。

 

 できれば、そんな大きな問題意識を心に留めながら、これからも、留学と留学生の歴史を追ってみたいと思っています。